目次
あらすじ
夫婦は、娘の小学校受験が終わったら離婚する予定だった。
受験を目前に控えたある日、娘がプールで溺れたという悲報が届く。
駆けつけた病院で、二人は思いもよらぬ決断を迫られる。
<答えてください。娘を殺したのは、私でしょうか。>
感想
今年は東野圭吾の作家デビュー30周年にあたります。彼は『人魚の眠る家』について、次のように語っています。
<執筆中、ふいに気づきました。自分は今、とんでもない話を書いていると――。こんなものを自分が書いていいのか? 今も悩み続けています。>
東野圭吾には『手紙』『白夜行』『変身』『分身』など、倫理に関わるような、簡単に答えが出ないような、あるいは答えが存在しないような問題を扱った著作が数多くあります。
そのような小説を30年にわたって書いてきたのですから、当然開き直って執筆活動をしていると、私は思っていました。
違うようです。
言われてみればそれらの小説は、作中では明確に答えのようなものが出ていなかったり、登場人物の結論が個別的なものであったりします。
今考えてみるとそれはたぶん、著者・東野圭吾の逡巡が映し出されたものだったのでしょう。やはり30年くらいの歳月では、そのような問いにクリアカットな回答を用意することは難しいのだと思いました。
でも、だからこそ東野圭吾は30年間も作家でいられたのだ、と考えることもできます。
文章を書いた経験がある方はおわかりになるでしょうけど、なにかを書くということは、その書くという行為を通じて、なにかを考えることでもあります。
東野圭吾は人生における、人間として直面するさまざまな問題を考えるために小説を書いている――そんなふうに考えることもできると私は思います。
人魚姫伝説では、彼女は王子と結婚するために、秘薬を飲んで尻尾を脚に変えます。本来の身体とは捻じ曲がった姿であるために、彼女は歩くたびに激痛に耐えなければなりませんでした。
東野圭吾も同じように、『人魚の眠る家』を書いているとき「痛み」を感じていたのではないか、と私は思います。
脳死、臓器移植、延命処置……それらに納得のできる答えを与えるための「秘薬」が小説を書くことだった。そしてその「秘薬」を飲んだ後はひたすら書き続けるしかなかった……。
人魚姫の物語は、彼女が報われないまま、泡となって幕を閉じます。
同様に『人魚の眠る家』が泡になってしまうかどうかは、私たち読者次第です。
できることなら、東野圭吾が悩みぬいた軌跡をきちんと読み取りたい。そんなふうに私は思います。
おわりに
「おすすめ小説リスト」はこちらから。
記事に対する感想・要望等ありましたら、コメント欄かTwitterまで。