目次
はじめに
『徒然草』のジャンルは随筆(ずいひつ)です。
原文は「原文『徒然草』全巻」のものと、今泉忠義訳注『徒然草』角川ソフィア文庫のものを参考にしました。
主に現代語訳(口語訳)、問題とその解説を書きました。書きたくなったから書きました。
細かいところは間違っているかもしれませんが、おおむね正しいはずです。
参考にしていただけるのであれば、とても嬉しいです。
作者について
兼好法師(読み方:けんこうほうし)。あるいは吉田兼好(読み方:よしだけんこう)と言われています。
『徒然草』は鎌倉時代に成立。
冒頭(序段)「つれづれなるままに」
読み方
つれづれなるままに、ひぐらしすずりにむかいて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなくかきつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
現代語訳
することもなく退屈なので、一日中硯(すずり)に向いながら、心に浮かんでくるあれこれのことを、なんとなく書いてみると、不思議な気持ちがして、心が変になったように感じられる(が気分がよい)。
問題と解説
Q.冒頭の意味は?
A.著者は毎日特にやることもなく退屈で、なんとなく硯を使って墨をすり、筆を持ってみた。
気分のままに文章を書いていると、なんだか変な気持ちになって、どんどん筆が進む。
書いているうちに気分が乗ってきて、(もっと書きたい!)という気持ちになっていったことを表しています。
第1段「いでや、この世に生まれては」
現代語訳
ところで、この世に生まれたからには、願わずにはいられないことが多いみたいである。
ミカドの位(にあるお方)は、とてもおそれ多い。ご子孫にいたるまで、人間なんかよりもとても高貴だ。
摂政や関白といった地位の人も、言うまでもなく貴い。
それ以外の役職の方も、立派な方々である。
そのお子さんやお孫さんまでも、落ちぶれてしまっているとしても、どこか奥ゆかしさを感じる。
身分の低い人々が、ほどほどに出世して、したり顔などをしているのは、自分ではいい感じだと思っているのだろうが、はたから見ると残念な感じである。
問題と解説
Q.高貴な人と身分の低い人を、著者はどのようにとらえているか?
A.高貴な人を著者は絶賛しています。
「人間の種ならぬぞやんごとなき」と、もはや人間扱いしていない。
人間よりも高いものだととらえているようです。
身分の低い人に対しては、きびしい評価をしています。
第7段「あだし野の露きゆる時なく」
現代語訳
あだし野で見られる露(のように人の命ははかないものだが、それが)が消えないとして、また鳥部山で見られる煙のようにずっと生きていけるのならば、まったく「もののあはれ」は感じられないだろう。
この世は、いつ死ぬかわからないから面白いのだ。
命あるものを見てみると、人間ほど長く生きるものはない。
カゲロウは夕方を知らないまま死に、夏のセミは春も秋も知らぬまま死ぬ。
このように考えてみると、ほのぼのと一年を暮らすことが、とてものどかに思えてくる。
死ぬのが惜しいなどと考えていては、たとえ千年生きたとしても、わずかひと晩の夢のように(短く)感じることだろう。
ずっと住むことができないこの世に、年老いて醜くなった身体でいて、何をするというのか。
寿命が長ければ、恥も多い。
どんなに長く生きたとしても、40手前くらいで死ぬのがちょうどいいだろう。
もしそのくらいを過ぎてしまったとしたら、自分の見た目を恥ずかしく思う心もなくなってしまい、外出して人と会うこと考えたり、子孫を愛し彼らが立派になるまで生きていたいと思うようになり、ただひたすらこの世に未練を持ち続け、「もののあはれ」もわからなくなってゆく、みじめである。
第10段「家居の、つきづきしく」
現代語訳
家が、ふさわしくちょうどよく建っているのは、(私は家というのはこの世の)仮の住まいだと思っているが、とてもよいものだ。
立派な人がのどかに住んでいるところは、さしこむひと筋の月の色さえも、しみじみと感じられる。
今風でもなく、きらきらしているわけでもないけれど、木々が古くなっていて、わざとらしくない程度に生えた庭の草もよいし、スノコ、スキガキの具合もいいし、適度に配置された棚なども古風で安心する、すばらしい。
磨きぬかれたものや、中国や国産の珍しいものを並べて置き、庭先の草木までもが計算されてつくられた庭は、見ると眼も苦しくなり、とても残念な気持ちになる。
そうまでしても、長生きなどできるものか。
あるいは、火がついたらすぐに全て燃えてしまうだろうと、ちょっと見ただけで予想できる。
家を見れば、そこに住んでいる人のことが大方わかってしまうものだ。
後徳大寺大臣の寝殿に、トビが飛んできてとまるということで、縄を張っているのを西行という人が見て「トビがとまっていたとして、それのどこが悪いことなのだ。ここに住んでいる方は、その程度の人なのだな」と二度とそこを訪れなくなったというのを聞いた。
綾小路宮の住んでいらっしゃる小坂殿に、いつだったか縄が張られたことがあって、西行の話を思い出したけれど、「鳥の群れが池のカエルをとりに来るので、かわいそうに思ってそうしているのです」という話を聞いて、それはいいことだと感じた。
徳大寺のところでも、そのような事情があったのかもしれない。
第32段「九月二十日の頃」
現代語訳
9月20日ころ、ある人に誘われて、明け方まで月見をしながら歩くということをしたのだが、なにか思い出されたことがあるということで、(私を)案内の人に任せて、室内へお入りになってしまった。
荒れた様子の庭であったが、露がたっぷりおりているし、さりげなくよい香りもするし、静かな感じが、とても「あはれ」である。
よい時間になったので帰ろうとしたが、優雅な様子が心残りだったので、物陰からこっそりうかがっていたら、家の主人が妻戸を少し開けて、月を見ていたようだ。
もし客が帰ったとたんにカギをかけて奥にひっこんでしまったとしたら、それは残念なことだ。
(私のように)帰った後も見ている人がいるとは、けっして思わないだろう。
このような心がけは、普段からしておくべきものである。
そのご主人は、それからすぐ亡くなったと聞いた。
第52段「仁和寺にある法師」
現代語訳
仁和寺に住んでいたお坊さんは、年をとるまで石清水に行って拝んだことがなかったので、情けないなと思って、あるとき思い立って、たったひとりでお参りに向かった。
極楽寺、高良などを参拝し、こんな感じかと思って帰った。
さて、彼は近所の人に会って「ずっと考えていたことをしてきた。聞いていた以上に尊いものだったよ。そういえば、参拝していた人たちがみんな山へ登っていったのだが、何かあるのだろうか。気になったが、参拝こそが本来の目的だと思っていたので、山までは行かなかった」と語ったようだ。
ささいなことでも、案内をしてくれる人はほしいものだ。
問題と解説
Q.係り結びはどこ?
A.<尊く「こそ」おはし「けれ」>
<何事「か」あり「けむ」>
Q.仁和寺にある法師が失敗したことは何か?
A.彼が参拝した極楽寺や高良は、石清水の建つ山のふもとにあった。
彼は目的地の手前で拝み、そこで満足して帰ってしまったのだ。
「みんな、山登りしていたみたいだけど、山の上に何かあるのか? まぁ私は参拝に来たのであって山登りに来たのではない。拝んだら帰ろう」と考えたことが失敗である。
Q.<すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり。>とはどういうことか?
A.有名な寺に参拝するというような難しくないことでも、案内してくれる人と一緒に行ったほうがよい、ということ。
第59段「大事を思ひ立たむ人は」
現代語訳
(仏道修行のような)大事なことをしようと思い立った人は、捨てづらく、気になっているようなこともそのままにしておきながら、何かを始めるべきである。
「もうすこし後で、この事を終えてから」、「同じく、あのことも処理してから、「あれこれのこと、他人に笑われてはいけないから、将来のためにやっておいて……」、「長い間こうして暮らしてきたのだから、すこしくらい(修行が)遅れても問題あるまい。あとで困らないように」などと思っていたら、去ることのできない理由だけが積み重なって、それが尽きることなく、始める日はついに来ないのである。
多くの人を観察するに、少しばかり賢い人は、だいたいこんな感じで一生を終える。
近所の火事から逃げる人は、「ちょっと待て」と言うだろうか。
自分の身を助けようとするのなら、恥をかえりみず、財産も捨てて逃げるしかない。
(同じように)命も人を待ってはくれない。
死は、水害や火災よりもすみやかに、逃れがたく来る。そのとき、老いた親、小さい子ども、主人への恩、人情などは「捨てるのが難しい」と言っていられるだろうか。
問題と解説
Q.<大事を思い立たむ人>はどうしろと言っているのか? またその理由は?
A.思い立ったら、即座に始めるべきだと著者は言っています。
いろいろ言い訳をしてしまう人は、結局やることができずに一生を終えてしまう。
死の近づいてくる速度は、どんな災害よりも速い。
第68段「筑紫に、なにがしの押領使」
現代語訳
筑紫(地名)に、押領使の仕事をしている人が住んでいたが、大根を万能の薬だと言って、毎朝2本ずつ焼いて食べていた、それをずっと続けていた。
あるとき、誰もいないことを見計らい敵が襲ってきて館をとり囲んだが、中から兵士が2人出てきて、命を惜しまず戦い、敵を全て追い返してしまった。
とても不思議に思い「ふだんここに住んでいるわけではない方が、このように戦ってくださるとは、いったい何者なのですか」と訊ねたところ、「長年あなたが信用して、毎朝食べていた大根ですよ」と言って消えてしまった。
深く信じていれば、こんないいこともあるのだな。
第92段「ある人、弓射ることを習ふに」
現代語訳
ある人が、弓について習うときに、2つ矢を持って的に向った。
師は、「初心者は、2本の矢を持ってはならない。後の矢を頼りにして、最初の矢をなおざりにする心が生まれる。毎回ただ、この矢で決めると思え」と言った。
たった2本の矢のうち、師の前でどうしてこの1本をおろそかにしようなどと考えるだろうか。
怠ける心は、自分では気づかないとしても、師はこれを知っているのだ。
この戒めは、すべてのことに通じる。
道を学ぶ人は、夕方には(明日の)朝があることを思い、朝には夕方があることを思って、じっくりていねいに修行をしようと考える。
その一瞬のスキに、怠け心があることを知らないのだろう。
どうして今目の前にあることにすぐ取りかかることは、こんなに難しいのだろうか。
問題と解説
Q.師が<初心の人、二つの矢を持つことなかれ。>と言ったのはどうしてか?
A.矢を2本持つことで、知らず知らずのうちに最初の矢をおろそかにしてしまうような怠け心が生まれてしまうから。
第109段「高名の木のぼり」
現代語訳
木のぼり名人と呼ばれた男が、人を雇って高い木に登らせ、こずえを切ってもらったとき、とても危なそうな場所では特に何も言わなかったが、下りるときになって、低いところにさしかかると、「失敗するなよ。気をつけて下りよ」と言葉をかけたので、「あとこれくらい、というところになったので、飛び下りることもできますよ。どうしてそんなことを言うのですか」と訊ねたので、「そのことです。眼が回るような、枝が不安定なところでは、自分で気をつけるだろうから、こういうことは言わない。失敗は、なんでもないようなところで、必ず起こる」と答えた。
身分の低い人の言うことではあるけれど、聖人の戒めとしても通用することである。鞠も、蹴るのが難しいときを乗りこえた後に、簡単だと思ったところで落としてしまうものだから。
第137段「花は盛りに」
現代語訳
花は満開のとき、月は澄みきったときだけが見ごろではない。雨のときに月が恋しくなり、家にこもって春が暮れていくのを知らないでいるのも、あはれで趣が深い。
花が咲きそうな梢や、散ってしおれてしまった(花が多い)庭なども、見どころは多い。
和歌の詞書にも、「花見に参りましたが、早々と散ってしまっていましたので」とか、「ちょっと用事があってでかけられなくて」などと書いてあるのは、「花を見て」と言ってから詠むことに劣っているだろうか(いや、劣っていない)。
花が散り、月が傾いていくのを慕う風習はこのようであるが、全然風流でない人は「この枝もあの枝も花が散ってしまった。今は見どころがないな」と言ってしまうのだ。
すべてのことは、始めと終わりに趣がある。
男女の愛情も、ただ逢うことだけを言うのではない。
逢えないまま終わってしまったことを思い、かなわぬ恋を嘆き、長い夜を独りで明かし、遠くに見える雲を見て想い、浅茅が生えるような昔を思い偲ぶことこそ、恋愛を理解している人だと言うべきである。
千里を照らすような澄み渡った満月を眺めることよりも、待っていた月が暁のころになって出てきて、趣が深く、青みがかった様子で、杉が深く茂った山の影になったり、時雨を降らせた雲に隠れたりするのも、またあはれなり。
椎の木や白樫などの濡れた葉っぱの上に(月が)きらめくことなども、身にしみるようで、これを理解してくれる友人が欲しいな、と都の暮らしが恋しく思われる。
問題と解説
Q.趣がわかる人とわからない人は、花が散っているのを見てそれぞれどう思うか?
A.趣がわかる人は、散ってしまった花にも見どころは多い、と思う。
趣がわからない人は、花が散ってしまったらもう見るべきものはない、と思う。
第150段「能をつかむとする人」
現代語訳
なにかを身につけようとする人は、上手くできないうちは、人にそれを知られたがらない。
内緒で習ったあと人前に出すのならば、とても奥ゆかしく見えるだろう、とよく言われているが、そのような人は、一芸も身につけることはできないだろう。
全然できないうちから、上手な人に混じって、ののしられたり笑われたりすることを恥じないで、気にせずに過ごしこなしていく人は、才能がなかったとしても、やり方にこだわらずに、余計なこともせずに時を過ごせば、才能があっても努力しない人よりは、最終的には上手になり、徳もあり、人に尊敬され、並ぶことのない名声を得るのである。
天下の達人といっても、最初は下手だという評判があったり、よくない欠点もあったのだ。
しかしその人は、その道のルールを正しく守り、それを重んじて勝手な行いをしなかったので、世間では、その道に広く通じた人とされ、また万人にとっても師となった、それはどんな道のことにおいても見られることである。
問題と解説
Q.なにかを身につけようとするときは、どのような心構えで臨めばよいのか?
A.人に笑われたりすることを恐れずに、上手な人々に混じって、正当な道にのっとってコツコツやろうとするような心構え。
第168段「年老いたる人の」
現代語訳
年老いた人が、一芸に優れたところがあって、「この人の死後は、誰に質問をしたらよいのだろうか」などと言われるのは、老人の味方のようなものであって、(こう言われるのであれば)生きているのも無駄ではない。
そうはいっても、そのことについて完璧に知り尽くしているのであれば、一生をそれに費やしたのだろうな、と悲しく見える。
「今はもう忘れてしまったよ」と言っている(方がいい)。
大体知っていることでも、やたらに話し散らすことでそうでもない人物に見られてしまい、そのうち自然に間違ったことも話してしまうだろう。
「はっきりとはわかりませんが」などと言うのは、むしろ本当は知り尽くしているのではないかと思われる。
よく知らないことを、したり顔で、こちらが反論できないような人が語り、それを違うだろうと思って聞いているのは、とてもわびしい。
第236段「丹波に出雲といふ所あり」
現代語訳
丹波の国に出雲というところがある。
出雲大社として祀り、立派に造ってある。
志太のナニガシという人がが治めるところで、秋のころに、(志太が)聖海上人やその他大勢を誘って、「さあ行きましょう、出雲の参拝へ。ソバガキをごちそうしますよ」と言って、連れ立って向かった、おのおの拝み、おおいに信仰心を持った。
御前にある獅子と狛犬の像が、互いに背を向けて、後ろを向くように立っていたので、聖海上人は感心して「あぁめでたい。この獅子の立ち方、とても珍しい。深い理由があるに違いない」と涙ぐんで、「なぜ殿方らは、こんなにありがたいことがお目にとまらないのですか。ひどいなぁ」と言ったところ、皆不審に思って、「ほんとうに他にない(立ち方だな)。都へのみやげ話にしよう」と言い出したので、聖海上人はさらに気分がよくなって、年を重ねて物を知っていそうな神官を呼びつけて、「このお社の獅子の立て方は、きっと由緒あるものでしょう。ちょっと教えていただけませんか」と言ったので、「そのことなのですが。いたずら小僧どもがしたことです、けしからんことです」と言って、近づいて、直していってしまったので、聖海上人の涙は無駄になってしまった。
問題と解説
Q.聖海上人が涙を流したのはなぜか?
A.背を向け合っている獅子と狛犬の立ち方には深い理由があるのでは、と感動したから
Q.<聖海上人の感涙いたづらになりにけり。>とあるが、それはどうしてか?
A.由緒あるものだと思っていた獅子の立ち方が、小僧たちのいたずらにすぎなかったから。
第243段「八つになりし年」
現代語訳
8歳のとき、父に訊ねた、「仏とは、どんな存在なのですか」と。
父は「仏とは人がなったものだ」と答えた。
さらに質問した、「人はどうやって仏になるのですか」と。
父は「仏の教えによってだ」と答えた。
またさらに質問した、「その、教えてくれる仏というのは、どうやって仏になったのですか」と。
父は「それもまた、先輩の仏の教えによってなったのだ」と答えた。
また質問した、「教えはじめの、第一の仏は、どうやって仏になったのですか」と言ったら、父は「空から降ってきたのだ。土から湧いて出たのだ」と言って笑った。
「問い詰められて答えられなくなってしまいました」といろいろな人に語っておもしろがっていた。
おわりに
個人的に(どうなんだ?)と思ったのは、第68段「筑紫に、なにがしの押領使」で毎朝食べられていた大根が、恨んで出てくるのではなく、感謝のために現れたことです。
ふつう食べられていたのなら、いい気持ちは持たないのでは。
大根は食べられるために存在しているのであるから、毎朝食べられてさぞかし本望であろう……という主張のもと創られたお話なのでしょうか。
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