目次
あらすじ
幼い3人は満州で出会う。
珠子(たまこ)、美子(ミジャ)、茉莉(まり)。
彼女たちは友情を育む。おにぎりを分け合って食べた。
戦後、彼女たちはばらばらになる。運命に振り回される。
この世に必要なのは、争いではなく優しい思いやりの感情だ。
<わたしが死んだら、わたしの記憶もみんな消えちゃうでしょ。そうしたらきっとなにもかも、なかったことになる>
感想
フィクションなのにあたかもノンフィクションであるかのようだ。
要因は二つ考えられる。
一つは綿密な取材である。著者はさまざまな人に対してインタビューをし、体験談や思い出を広範に集めた。日本だけではなく、中国や韓国にも赴いたらしい。また、小説を書くために本を読んだ。参考文献にその跡が見られる。人間が記憶していること、それを語ること、それを書き表わすこと――それらを地道に収集することで『世界の果てのこどもたち』は創られた。
もう一つの要因は、私が(著者ですらも)実際の戦争を体験していないことだと思われる。
フィクションとノンフィクションの境界は、現実に起こる可能性が高いか低いか、である。
たとえば「ドライヤーをコンセントに差してスイッチを入れると熱風が出る」という文章はノンフィクションだ。これに対して「ドライヤーに手をかざすとそうめんが出る」という文章はフィクションである。いや、やろうと思えばできるのかもしれないけれど、私たちが人生において後者のような状況に遭遇してしまう確率はたぶんゼロだろう(未来の社会ではそうめんの容器がドライヤーのような形状になってしう可能性を完全に否定することはできない)。
話を戻す。
『世界の果てのこどもたち』がフィクションの物語にも関わらずノンフィクションのように脈動しているのは、著者が「戦争体験」を集めたことと、私が「戦争体験」を持たないことに起因する(たぶん)。
経験していないことは想像するしかない。そして想像をする際に、実際の地名や出来事の名前が出てくると、ひょっとして、いま読んでいるものはフィクションではないのではという考えが脳裏をかすめる。
フィクションは「それっぽいこと」を創作者が捏造して成り立つ。そこで読み手が感じるのは「リアリティ」であり「リアル」ではない。
本書は著者が結集した「リアル」に立脚して、物語が綴られている。想像よりも追想に重きを置いて書かれた作品である。
生きた現実の残滓のようなものが、『世界の果てのこどもたち』には伏流している。
おわりに
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