目次
あらすじ
主人公は実家が静岡のイチゴ農家。
東京に住んでいるが、父が倒れたことをきっかけに人生の岐路に立つ。
デザイナーの仕事と農業の両立はできるのか?
ほっこり心温まる超銀河級の新時代家族小説。
【読書感想文】原稿用紙5枚(2000字,100行)
私はイチゴが好きです。
春に静岡に旅行をして、イチゴ狩りを楽しんできました。
イチゴ農家の方々の家の裏に畑があり、そこでとり放題かつ食べ放題だったのですが、これだけ食べて大丈夫なのか?と心配になるくらい食べました。
でも、見渡す限りのイチゴ畑でしたし、たぶん私はお腹いっぱい食べても大丈夫だったのだろうとも思います。
たぶん人間の脳は、理性とか思考を司るところよりも、味覚とか触覚、嗅覚などを司るところのほうが原始的というか、より生物の根源に近いところになっているのだと私は思っています。その理論でいくと、実際に味わったおいしいイチゴは、文章や動画や写真で「こんなにおいしいよ」と教えられるより、インパクトが強い。
農業もそうです。
『ストロベリーライフ』を読んで、「あぁ、農業ってこんな感じなんだ」とか「転職って大変だな」とかを読んだ人は考えると思いますが、実際に農業をしてみることや、実際に転職してみるのと比べると、感じるところは大きく違うはずです。
だから、本ばかり読んでいないで、読書感想文なんかばかり書いていないで、休日たまにはアクティブに外出しようかなと思いました。今年はまだ海を見ていないので、とりあえず海を見に行きたいです。
それはともかく。
主人公は父親が倒れたことと、母親だけではイチゴ農業ができないことと、三人のお姉さんに押し切られたことから、不本意ながらイチゴを育て始めます。
「流される人生なんて、何が楽しいのか? 自分の道は自分で選び取ってこそだろ!」と考えるかもしれませんが、私たちの人生は、そもそも押し付けられた形で始まっているともいえるでしょう。
芥川龍之介『河童』では、子どもが、まさにお母さんのお腹から出てくる直前に「生まれたいかい?」と父親に問いかけられます。河童の世界では生まれることを選べますが、私たちの世界では今のところ、生まれてくることを選ぶことはできません。
日本語では「生まれる」と言いますけれど、英語において誕生は「I was born」と、受身の形で表現されます。どちらかといえば英語の方がより本質的だと私は思います。
私たちは生まれることを選べない。そのことを、『ストロベリーライフ』では、実家を継がざるを得ない主人公の状況になぞらえて表現しているのだと私は思いました。
でも、生まれた後で生き方を選択することは、ある程度なら、誰にもできると思います。選択の幅の多少の差はあれど。
恵介も、イチゴ農家一本で行くのかデザイナーとの兼業で行くのか、あるいはすっぱり縁を切って静岡には二度と帰らないと決めてしまうか。結局大方の予想通りの選択となりましたが、選べる自由があったことを踏まえて読むと、少しは救われるような気がします。
私たちは「やらされている」と感じることには、あまり乗り気でとりかかることができません。人が何かをいきいきとするには、「やりがい」とか「達成感」といったものが必要だと思います。それらを創出する作用が最も強いのは、「選び取った感」だと私は思っています。
恵介は、園児にイチゴを食べてもらったとき、あまりに喜んでくれたので、「これだ!」と運命のようなものを感じました。イチゴづくりに「価値」や「やりがい」を見出したのです。
自分の人生は、過去の自分がそのときどきの時点において選択を繰り返してきたことの集積である、と自覚することは、一期一会的に、人生を選択の連続だとみなす考え方をすることは、人が生きていく上で大きな支えになると思います。
「敷かれたレールの上を走る人生なんて嫌だ」といったりもしますが、自分自身でレールを敷いて走る、あるいはレールを敷かずに走ることは、とても気持ちがいいものです。
たとえばラジオ体操なんかでも、町内で夏休み半強制的に参加させられるよりは、ある朝ふと目が覚めて「ラジオ体操でもしてみるかな」なんて体を動かした方が、精神的にも肉体的にも健全であるような気がします。
だからといってラジオ体操をすべてサボったり、夏休みの宿題をぜんぶ親にやってもらったりするのも、よくありませんけれど。
人生においては、適度にやらされ、適度に選択していくことがよいかなと思います。
(95行,原稿用紙4枚と15行)
おわりに
過去に書いた「読書感想文」はこちらから。
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