目次
あらすじ
藪の中で男の死体が発見された。
自殺か他殺か、わからない。
食い違う当事者たちの証言。
全貌は明らかにされず物語は幕を閉じる。
解釈は読者にすべて委ねられた。
【読書感想文】原稿用紙5枚(2000字,100行)
『藪の中』をはじめて読んだとき、面白いな、と思ったのですが、盗人と男と女、そして周りの人々の発言がみんな違っていたので私は「なんでだろう」と混乱しました。
推理小説のように「謎がすべて最後に明らかになる」ことはなく「ラストで伏線に驚く」こともありません。
終わりまで読んでも話がさっぱりつながらないので、私は「誰か嘘をついているのでは」と疑いはじめました。そして次に「嘘をついているとしたら、誰が」と考えました。
もし仮に誰か一人が偽っているとして、他のみんなが全員本当のことを言っているとすると、数学の授業で習ったように七通りの組み合わせがあります。
『藪の中』では「女」に対してみんなが厳しいことを言っているので、私は「女が嘘つき」だと見ながらもう一度読み返してみました。たいへん面白かったです。
そこでふと突然に「誰か一人が嘘をついている」と見なすことができるのなら「誰か二人が嘘をついている可能性もあるんじゃないか」と思い当たりました。誰か一人だけが嘘つきで、それ以外の人がすべて正直者なんて保証はどこにも書いていません。そしてまた私は最初から『藪の中』を読みました。三回目です。盗人と女が嘘をついていると考えながら頁をめくりました。これもまた楽しかったです。
次に私が考えたのは、ひとりひとり正直者か嘘つきか当てはめるとしたら。
その組み合わせは理論上、百二十八通りです。すべての場合をいちいち考えていたら、読書感想文がまとまるのは何年先になるかわかりません。
ここで私は思い出しました。
作家の森見登美彦も同じ『藪の中』という題名で同じ形式の小説を書いています。『新釈 走れメロス 他四篇』に収録されたのを読んだことがあります。
あとがきの中で森見氏は芥川龍之介『藪の中』を「ただ見ていることしかできなかった男の悲痛な物語」と評します。
私と同じような考えで読んだのでしょうか。
たぶん違うでしょう。
誰が、どのように読むかによっていろいろな解釈ができる。『藪の中』はそういう小説だと気づきました。
そして私はそれが、この作品が長く読まれ続けている理由だと思います。
無限に各々が「自分なりのストーリー」を創りだすことのできるものは面白い。
そのことは小説に限らず、もっと幅広く言えることなのでは、と思います。
たとえば私は野球を見るのが好きなのですが、失点したとき、立場によってその受け止め方は違うことがあります。
ピッチャーは「たまたま甘いコースに投げた」と思っても監督は「スタミナが尽きたせいだ」と思うかもしれません。
試合を観ている人は「大舞台で緊張している」と考えるかもしれないし、球を受けるキャッチャーは「バッターに配球が読まれたか」と焦っているかも。
グラウンドで守備についている野手は「昨日あいつ夜更かししたから」と冷静に分析しているかもしれませんし、スタンドにいる投手の恋人が「私の応援が足りないからだ」と思って声を大きくすることも考えられます。
私が野球観戦が好きなのは、このように考えられる幅が広いからです。一球一球の間があり、プレーについて考える時間になるからです。
『藪の中』も同じだと私は思います。
この作品は読んだ人が、自分の想像力をできるかぎり駆使することで最大限に楽しむことができる。
登場人物の証言があいまいで矛盾しているのは作者のミスではありません。
それは作者からの「ラブレター」のようなものです。
「私はこう書いたけど、どう読むかはあなたに任せました」という信頼のようなものが文章の中からにじみ出ています。
その「読者への信頼感」によって『藪の中』は芥川龍之介の作品の中で長らく重要な位置を占めることになったのだと私は思います。
(88行,原稿用紙4枚と8行)