村上春樹『騎士団長殺し』感想|核心は痛みなしでは触れられない

読む前の感想

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割る卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。(中略)さて、このメタファーはいったい何を意味するか?
(村上春樹『雑文集』新潮文庫,97-98頁)

 

 村上春樹『騎士団長殺し』は第1部「顕れるイデア編」と第2部「遷ろうメタファー編」からなる。読み方はそれぞれ「あらわれる」と「うつろう」であるが、私は第2部の方を「かえろう」と読んでしまった(メタファーはどこに還るというのか)。

 

 村上春樹の小説において、メタファーは欠かせないものとなっている。たとえば「鼠」や「永沢さん」「リトルピープル」は、何を意味するのか? 解釈は、彼の小説を読むことのできた私たちひとりひとりに委ねられている。

 

 今作のメタファーは「遷ろう」と謳われているけれど、元々メタファーは遷ろうものであって、誰かに意味を押し付けられるようなものではないと私は思う。
 ある意味では、遷ろうメタファーは虚ろかもしれない。虚ろに遷ろうメタファーは、騎士団長を討ち殺すのか?

 

 もしかしたら、殺された騎士団長は復活するかもしれない。
 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』において、主人公・多崎つくるは友人たちから「殺され」絶望したが、その状態から回復するための試みを行う。
 もしかしたら、騎士団長も「殺され」そこから復活を遂げるのかもしれない。

 

悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない需要はない。
(加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』岩波新書,253頁)

 

 村上春樹の核心は、痛みなしでは触れられない。
 血を流さなければ赦しが得られないとするならば、甘んじて騎士団長は殺されるはずである。

 

書き出し

今日、短い午睡から覚めたとき、<顔のない男>が私の前にいた。
9頁 顕れるイデア編(プロローグ)

 

あらすじ

 <顔のない男>が顕れる。肖像を描いて欲しいと言うが、主人公は描くことができず、<顔のない男>はペンギンのお守りを持ったまま去ってしまう。

 いつかは彼の肖像を描くことができるのだろうか。

 『騎士団長殺し』を描いた雨田具彦のように。

 

登場人物

主人公

 画家。
 「対象の核心にまっすぐに踏み込んで、そこにあるものをつかみ取る直感的な能力」を持つ。
 「他人の秘密を引き出す特別な資質」がある。
 
 <時間を私の側につけなくてはならない

 

<顔のない男>(かおのないおとこ)

 広いつばのある黒い帽子をかぶっている。
 主人公に肖像を描いて欲しいと依頼する。
 ペンギンのお守りを持っている。
 
 <なにごとにも最初というものはある

 

雨田政彦(あまだ・まさひこ)

 主人公の美大以来の友人。父親・具彦(ともひこ)の住んでいた家を主人公に貸す。
 ジャック・ニコルソンの顔真似をする。
 
 <Blessing in disguiseという英語の表現を知っているか?

 

柚(ゆず)

 主人公の元妻。
 
 <鏡で見る自分は、ただの物理的な反射に過ぎないから
 
 

雨田具彦(あまだ・ともひこ)

 画家。
 『騎士団長殺し』というタイトルのついた絵を描いた。
 ウィーンへの留学経験がある。
 
 <オペラとフライパンの違いだって、今ではもうわからないよ
 
 

免色渉(めんしき・わたる)

 法外な報酬で主人公に自分の肖像画を描くことを依頼する。
 ネットで「免色」と検索すると「運転免許」だとか「色弱」だとかがヒットする。
 インサイダー取引と脱税の疑いをかけられた過去を持つ。
 
 <私には時間はいくらでもありますから
 
 

小径(こみち)

 主人公の妹。
 心臓が悪く、夭折する。
 
 <知ってる? アリスって本当にいるんだよ
 
 

秋川まりえ(あきかわ・まりえ)

 主人公が講師を務める絵画教室の生徒。
 免色渉の娘かもしれない少女。
 食べかけの皿を途中で持って行かれた猫のような表情をする。
 
 <わたしを理解するの?
 
 

白いスバル・フォレスターの男

 主人公が宮城県のファミリー・レストランで出会った中年の長身の男。

 <おまえがどこで何をしていたかおれにはちゃんとわかっているぞ

 
 

感想

時間について

 
  <自然の美しさは金持ちにも貧しき者にも分け隔てなく公平に提供される。時間と同じだ……いや、時間はそうではないかもしれない。裕福な人々は時間を余分に金で買っているのかもしれない。>
 
 『騎士団長殺し』の主人公はしばしば時間について考える。
 
 「時間を味方につけなくてはならない」はシーンのいたるところに見受けられる言葉だ。時間を味方につけることができれば、人生をうまく運んでいけるような感じさえ受ける。
 
 主人公は、ほとんど無職のような暮らしをしている。金持ちではない。上記の引用の場面では、金持ちの生活を想像して、時間を金で買うことについて思いを巡らせている。
 
 主人公は、終始、時間に対して、どちらかというと我慢強い態度をとる。
 
 <「時間が奪っていくものもあれば、時間が与えてくれるものもある。時間を味方につけることが大事な仕事になる」>
 
 これは、肖像画を描くために秋川まりえを前にしていたにもかかわらず、一度も絵筆を取らなかった時の発言である。強引な態度や性急な態度をとることが「時間を味方につける」上で妨げになるということだろうか。「礼儀正しさ」のようなものが「時間」にとって、とても大切なファクターなのであるのかしれない。
 
 

「システム」と「チーズ・トースト」

 『騎士団長殺し』では、「礼儀正しさ」と対比して「システム」が配置されているように私は考える。
 
 軍隊に徴兵され、自身が望まない、地獄のようなことを強制的にさせられた男・雨田継彦は、システムの犠牲者であると語られている。
 
 <システムというものはいったん動き出したら、簡単には止められない。>
 
 主人公はたぶん、政彦から継彦の話を聞く前から、システムの恐ろしさを感づいていて、それに対するひとつの対処法として「礼儀正しく」「時間」に向かい合うことを選択していたのだろうと思う。
 
 <「床に落としてみて、壊れた方が卵だ」>
 
 システムの前では、ひとりの人間は、壁の前の卵にすぎない。ぶつかってしまったら最後、あえなく割れ、壊れてしまう。割れた卵は戻らない。私たちにできることは、壁にぶつからないように、注意深く生きることである。
 
 動き出してしまったら最後、誰かが犠牲にならなければシステムは止まらない。『騎士団長殺し』におけるシステムは、騎士団長が殺されることにより始まり、騎士団長が殺されることにより静止へ移行していく。
 
 <「簡単なことだ。私を殺せばよろしい」と騎士団長は言った。「あなたを殺す?」と私は言った。>
 
 そして主人公はチーズ・トーストのこと考えながら狭く暗い地下通路を抜ける。彼は自分自身では、なぜそんなときにチーズ・トーストのことを考えたのか理由がわかっていないようだったが、私は、そのような状況において精神をできるだけフラットに保つために、そのことが必要なことだからだったと思う。
 
 人生において危険を冒さなければならなくなった時も、「システム」を止めるために冒険をしなければならなくなった時も、誰もがいずれは人生の大部分を占める「日常」に帰らなければならない。勇者は世界を救った後も生きていかなければならない。主人公が暗がりにおいてチーズ・トーストのことを考えるのは、自分のメインの部分を見失わないための、システムからの防衛策だったと私は考える。
 
 <「この世界には確かなことなんて何ひとつないかもしれない」と私は言った。「でも少なくとも何かを信じることはできる」>
 

名言

いつかは無の肖像を描くことができるようになるかもしれない。ある一人の画家が『騎士団長殺し』という絵を描きあげることができたように。
12頁 顕れるイデア編(プロローグ)
 
 
あるいはその時期の私は、特殊な磁気のようなものを身に帯びていたのかもしれない。
20頁 顕れるイデア編(1.もし表面が曇っているようであれば)
 
 
「あなたはそういうことをなさりたいのですか?」
24頁 顕れるイデア編(1.もし表面が曇っているようであれば)

 

「すだちじゃなくて、ゆず。似ているけど違う」
48頁 顕れるイデア編(2.みんな月に行ってしまうかもしれない)

 

「答えはイエスであり、ノーです」
123頁 顕れるイデア編(7.良くも悪くも覚えやすい名前)

 

なあ、おまえは自分についての情報を目にしたことってあるか?
138頁 顕れるイデア編(8.かたちを変えた祝福)

 

今が何年の何月なのかはわかりませんが、この手紙を手に取られるときには、私は既にこの世にいないはずです。
217頁 顕れるイデア編(13.それは今のところただの仮説に過ぎません)

 

我々は究極のベストを尽くしても、せいぜいビーフジャーキーにしかなれません
245頁 顕れるイデア編(15.これはただの始まりに過ぎない)

 

世の中には釘を打つべき金槌があり、金槌に打たれるべき釘がある、と言ったのは誰だったろう?
270頁 顕れるイデア編(16.比較的良い一日)

 

「好奇心というのは常にリスクを含んでいるものです。リスクをまったく引き受けずに好奇心を満たすことはできません。好奇心が殺すのは何も猫だけじゃありません」
288頁 顕れるイデア編(18.好奇心が殺すのは猫だけじゃない)

 

隠喩は隠喩のままに、暗号は暗号のままに、暗号は暗号のままに、ザルはザルのままにしておけばよろしい。それで何の不都合があるだろうか?
450頁 顕れるイデア編(28.フランツ・カフカは坂道を愛していた)

 

「目に見えるものが好きなの。目に見えないものと同じくらい」
12頁 遷ろうメタファー編(33.目に見えないものと同じくらい、目に見えるものが好きだ)

 

しかしな、諸君、この宇宙においては、すべてがcaveat emptor なのだ
121頁 遷ろうメタファー編(38.あれではとてもイルカにはなれない)

 

一人の女の中には、実は二人の女が潜んでいるんだよ。そんな風に考えたことはあるか?
275頁 遷ろうメタファー編(48.スペイン人たちはアイルランドの沖合を航海する方法を知らず)

 

たぶんとしか私には言えない。確信を持って断言できることなんてこの世界にはひとつもないのだ。
399頁 遷ろうメタファー編(56.埋めなくてはならない空白がいくつかありそうです)

 

「絵が未完成だと、わたし自身がいつまでも未完成のままでいるみたいで素敵じゃない」
513頁 遷ろうメタファー編(63.でもそれはあなたが考えているようなことじゃない)

 

おわりに

KKc
お読みいただきありがとうございました。

 

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