※引用はすべて河野裕『いなくなれ、群青』新潮文庫による
目次
あらすじ
階段島。
捨てられた者たちの島で、「僕」は真辺由宇と再会する。
100万回生きた猫、魔女、アリクイ食堂、ピストルスター。
階段島を出る方法は、「失くしたものをみつける」こと。
心を穿つ青春ミステリ、階段島シリーズ開幕。
プロローグ
<どこにもいけないものがある。>
(7頁)
一話、ひとつだけ許せないこと
<きっとその再会に、運命じみたものはなかったはずだ。>
(19頁)
二話、ピストル星
<連続落書き事件の、最初の犯行が明らかになったのは、11月20日の放課後になるころだった。>
(101頁)
三話、手を振る姿はみられたくない
<月曜日の朝の出来事で、僕にとって重要な意味をもっていたのはふたつだ。>
(227頁)
エピローグ
<この物語はどうしようもなく、彼女に出会った時から始まる。>
(318頁)
感想
捨てられた者たちの島。階段島。
島を出るには、失くしたものをみつけなければならない。
<「納得ですよ。納得してこの島にくる人はいません。貴女はこれから時間をかけて、ここでの生活で、すこしずつ納得をみつけていくのです」>
(40頁)
これは階段島唯一の学校の教師であるトクメ先生の言葉です。彼女は本名を偽った上に仮面をつけており、まさに「謎の人物」です。はたから見るとかなりうさんくさいですが、私は彼女がそのようにふるまうのは、教育者として最大の効果をあげるためではないか、と予想します。
私たちは学ぶ立場に置かれたとき、「よくわかっている人」よりも「なんだかよくわからない人」の話のほうを注意して聴いてしまう性向を持っています。
鳥山明『ドラゴンボール』の「亀仙人」はなぜ甲羅を背負っているのでしょう。なぜ「仙人」であるのに山ではなくビーチに住んでいるのでしょう。そして、年甲斐もなくスケベ心にあふれているのはなぜでしょうか。
夏目漱石『こころ』の「先生」は、なぜ「先生」と呼ばれているのでしょうか。どこの学校に勤めるわけでもなく、ただぼんやり暮らしているだけなのに。
私たちが相対したときに「うんざり」してしまうような「先生」というのは、たとえばいつも同じ話をする人だとか、あるいは定型的な行動をする人です。換言すれば、「よくわかる人」です。
自分がすでにわかっていることに対して積極的に学ぶ気持ちを持つことは難しい。
とつぜん「九九の授業を30分聞いてくれ」と頼まれて(うへェ)とならない方はいないでしょう。
また、この文章を読んでいる人なら、今さら『いなくなれ、群青』のあらすじを読む気にはならないでしょう(あらすじマニアを除く)。
トクメ先生の「謎」は「100万回生きた猫」によっても補強されています。「好きな本はなに?」の質問に合わせて姿を変える「100万回生きた猫」は七草の前ではそう名乗っていますが、他の人の前ではおそらく違う姿をとっていると思われる存在です。
七草は彼に「トクメ先生は、君のことを何と呼んでいるの?」(120頁)と質問します。
<「オレは100万回生きた猫だよ。ほかの名前なんてない」>
(120頁)
この返答は二通りに解釈できますけど(「猫」がはぐらかしている、あるいはトクメ先生も「100万回生きた猫」と呼んでいる)、いずれにせよ、トクメ先生の「謎」を形成する役割に一枚噛んでいるといえます。トクメ先生はどこまでも謎です。
私は「先生」という生き物は、どこかに「謎」を抱えた存在であるべきであると思います。そうすることで生徒や弟子は、学びに対して最も効率的な姿勢をとることができると思っています。
本書は「階段島シリーズ」の第一弾ということですが、「トクメ先生」が最後まで「謎」であることを願っています。
おわりに
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