※引用はすべて森鴎外『阿部一族・舞姫』新潮文庫による
あらすじ
熊本の殿様が亡くなった。
家臣は後を追い切腹した。
阿部弥一右衛門も切腹するが、その経緯によって遺された一族は冷遇される。
そして終に、阿部一族を討つ命が下った。
<生あるものは必ず滅する。老木の朽枯れる傍で、若木は茂り栄えて行く。>
(143頁)
登場人物
細川忠利
殿様。参勤交代の途中にかかった病により亡くなる。
天草四郎時貞を討ち取った経験を持つ。
細川光尚
細川忠利の嫡子(跡継ぎ)。
<皆出精であったぞ。帰って休息いたせ。>
(174頁)
内藤長次郎
酒好き。忠利の死に殉じて切腹する。
津崎五助
忠利の犬を管理していた。
犬と一緒に腹を切った。
<家老衆はとまれとまれと仰せあれどとめてとまらぬこの五助哉>
(148頁)
阿部弥一右衛門
生前の忠利に「生きていて光尚に奉公してくれい」と云われるなど、許しは出ていなかったが、切腹する。
阿部一族は真の殉死者とは違う扱いを受けることになる。
<目の先ばかり見える近視共を相手にするな。>
(153頁)
阿部権兵衛
弥一右衛門の嫡子(跡継ぎ)。
忠利の一回忌で自分のチョンマゲを斬り、それにより縛り首にされる。
柄本又七郎
阿部一族の屋敷の隣に住む。
<情は情、義は義である。>
(163頁)
竹内数馬
阿部一族を討つことを光尚に命じられる。
討ち入りの際に死亡する。
<死にたい。犬死でも好いから、死にたい。>
(166頁)
小姓
高見権右衛門のお供。
昼寝をしていたところ枕を蹴られてたたき起こされたのでその人を斬ったという過去を持つ。
銃弾から権右衛門をかばって即死する。
【読書感想文】原稿用紙3枚(1200字,60行)
『阿部一族』に出てくる人たち(たいてい武士)は、死ぬことに対して、それほど臆病な心を持っていません。それどころかむしろ、死にたいとさえ思っているところがあります。
内藤長次郎は「お願がございりまする」と言い、殿様が亡くなったときに腹を切る(=死ぬ)許可を求めます(私は初めて知ったのですが、殿様の後を追って「殉死」するためには、殿様が生きているうちに「お許し」をいただかないとだめなんだそうです。ちなみに阿部弥一右衛門は「いいよ」と言われてないのに切腹したので白い目で見られました)。
津崎五助は管理していた殿様の犬と一緒にためらうことなく死にました(犬もためらわなかった)。
竹内数馬は「死にたい。犬死でも好いから、死にたい。」と強く思っていました(死にました)。
どうして彼らが死ぬことに対して臆病な気持ちでなかったかというと、彼らは死ぬこともまた生きることだと思っていたからだと私は思います。
物語が始まるきっかけとなった最初の死人である細川忠利は、できれば自分の家臣は切腹せずに、変わらず息子の補佐をしてほしいと願っていましたが、それはよくないことだと思い直します。すでに息子には息子の家臣がいるはずであり、また、自分の家臣も長く勤めるうちに色々な怨みを買っているだろう。継いだ瞬間から「負債」を抱えるのも可哀相……というのがその理由です。
視点を変えて、忠利の家臣にとっては、切腹するまでが仕事であり、その機会を得られなかったり逃したりすることは、自分の仕事(=生き方)全体がだめだったという烙印を押されることでした。それは仕事(=身分)の移動が今よりも難しかった江戸時代の武士にとって、最優先で避けるべき問題であったと私は思います。
だから彼らは死ぬことを素直に人生の一部として受け入れていた。死ぬことをそのように受け入れるということは、自分に対してタイム・リミットを付与することであり、それは大抵の場合、人生を前向きに考えることに繋がります。
別に死という「極限」までいかずとも、なんらかのデッド・ラインを設定することは、それに達するまで私たちの行動を豊かにします。夏休みは終わるからこそ心に残るのであり、ハリー・ポッターは七部作で完結するから面白い(『ハリー・ポッターと碧眼のグランドチャイルド(第88巻)』とか、私はあんまり観たくない)。
この読書感想文も、ここで終わるからこそよいのだと思いました。
(58行,原稿用紙2枚と18行)
おわりに
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