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エルサレムの「壁と卵」
村上春樹が最もノーベル賞に近づいたときは、エルサレム賞を受賞したときだと思う。その場で行った「壁と卵」のスピーチは今もなお語られるほどである。
<もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。>
さらに村上春樹はこう続ける。
<どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。>
この喩えはいったい何を意味するのか?
村上春樹は私たち人間を「卵」、そして「システム」を「壁」だと語る。残念ながらこれ以上の説明を彼はなさない。<私が皆さんに申し上げたいのはそれだけです。>とスピーチを締めてしまう。
このスピーチは村上春樹の書く小説のようだ、と思った。彼の書く小説はどれも、核心部分が読者それぞれの解釈に委ねられている。たぶん、十人に「あなたはどんなことを思いましたか?」と訊くと、必ずそれぞれ違う答えが返ってくると思われる。それくらい村上春樹の小説は奥が深い。
だから「壁と卵」のスピーチも、「壁がシステムで、我々が卵」以上のことを彼が発言しなかったのは、ある意味当然であると私は考える。村上春樹は彼の創りだす小説の意味の発見を私たちに委ねるように、エルサレム賞スピーチの解釈を私たちに託した。
それらを解釈する試みは「壁」のように高い。私たちは壁の前に存在する卵のように、自分自身を無力に感じてしまうこともある。しかしそれでも安易に「絶望」の感情を抱くのは間違っている。
卵は壁に当たると割れてしまうが、壁にぶつけないという選択肢もとることができる。
無鉄砲と勇気は違うものだ。
(693字)
作品情報
著者:村上春樹