芥川龍之介『魔術』【読書感想文】あらすじ付

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芥川龍之介『魔術』あらすじ

 「私」は友人・ミスラ君の元を訪れる。魔術を見せてもらうためだ。
 ミスラ君はテーブル掛けの花模様を取り出したり、書棚の本を操って見せたりする。

 「私」はミスラ君に魔術を教えてほしいと頼む。
 ミスラ君は承諾した。

 しかし一ヵ月後、ミスラ君の「魔術を使うときは欲を出してはいけない」の言いつけを破り、「私」はギャンブルに魔術を使ってしまう。
 その瞬間に「私」の意識は一ヶ月前のミスラ君の部屋へ戻った。

 「私」は夢の中で試されていたのだ。
 魔術を習う資格のないことを「私」は悟った。

【読書感想文】原稿用紙3枚(1200字,60行)

KKc
 「すべてはマティラム・ミスラ君の掌の上」

 『魔術』をはじめて読んだとき、これは『杜子春』と同じような物語だな、と思いました。

 『杜子春』は若者がある老人に「仙人になる方法を教えてください」と頼む話です。『魔術』は「私」がミスラ君に「魔術を教えてくれ」とお願いする話です。どちらも「師匠」に「弟子」が「秘法」の伝授を乞うというところが共通しています。

 『杜子春』では最終的に若者は人間のすばらしさを知り「仙人にならなくてもいい」と人間らしく生きていくことを選びます。『魔術』では「私」は「魔術を使う資格はない」と遠まわしにたしなめられて、話は終わりです。

 私が同じだと考えたのは、どちらも「秘法」を教えてもらっていないからです。二つの小説は「秘法」なんかに頼らないで「まじめに、ていねいに」人間として生きていかなければいけない、というメッセージがあると思いました。

 「私の魔術を使おうと思ったら、まず欲を捨てなければなりません。あなたはそれだけの修行ができていないのです」

 人生ズルをしようと思ってはいけないよ、という裏のささやきが聴こえるようでした。ミスラ君は『魔術』を通して堅実に生きることの大切さを教えてくれたと、私は思います。

 また、感想文を書くために読み返してびっくりしたことがあります。
 ミスラ君の「高が進歩した催眠術に過ぎないのです」という言葉です。

 それまで私は、ミスラ君はずっとハッサン・カン直伝の魔術を使っていたのだと思っていました。
 でもそれは、もしかすると私が考える「魔術」ではなく、ただの「催眠術」なのではないか、と思いはじめました。

 ミスラ君は「魔術」で花を出し入れしたりランプをくるくる回したり、書棚の本を操作しました。
 そのことは「私」が催眠術にかかっていた結果なんじゃないかという気がしてきました。目撃者は「私」しかいなかったのです。

 最後に「私」は夢から覚めます。それは、まるで催眠術から戻ってきたような状態でした。ミスラ君はそもそも「夢を見せる魔術を使った」とは一言もいっていません。ミスラ君は魔術師ではなく催眠術師だったのかもしれません。

 このことに思い当たったとき、私は小説の本当のタイトルは『魔術』ではなく『催眠術』なのではないかと思いました。

 だから『魔術』という題の小説を読んでいると思っている時点で、私たちはミスラ君の掌の上で転がされているだけなのかもしれません。

(57行,原稿用紙2枚と17行)

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【読書感想文】原稿用紙5枚(2000字,100行)

KKc
 「すべてはマティラム・ミスラ君の掌の上」

 『魔術』をはじめて読んだとき、これは『杜子春』と同じような物語だな、と思いました。
 『杜子春』は若者がある老人に「仙人になる方法を教えてください」と頼む話です。
 『魔術』は「私」がミスラ君に「魔術を教えてくれ」とお願いする話です。

 どちらも「師匠」に「弟子」が「秘法」の伝授を乞うというところが共通しています。
 最初から結末までそっくりです。

 『杜子春』では最終的に若者は人間のすばらしさを知ります。
 そして「仙人にならなくてもいい」と人間らしく生きていくことを選びます。
 『魔術』では「私」は「魔術を使う資格はない」と遠まわしにたしなめられて、話は終わりです。

 『杜子春』は前向きな終わり方です。
 それに対して『魔術』は残念な終わり方をしています。

 一見すると同じような物語には見えないかもしれません。
 ですが私は同じだと思います。

 私が同じだと考えたのは、どちらも「秘法」を教えてもらっていないからです。
 二つの小説はいずれも「秘法」なんかに頼らないで「まじめに、ていねいに」人間として生きていかなければいけない、というメッセージが込められていると思いました。

 『魔術』で「私」はミスラ君との約束を破ってしまったために、気の毒な結末を迎えます。
 ミスラ君は最後まで優しく微笑んでいますが、けっこう厳しいことを言います。

 「私の魔術を使おうと思ったら、まず欲を捨てなければなりません。あなたはそれだけの修行ができていないのです」
 私には、人生ズルをしようと思ってはいけないよ、という裏のささやきが聴こえるようでした。

 そもそも「私」が失敗したきっかけはギャンブルでした。
 欲を捨てなければ魔術を使うことはできないと知っているのに、「私」は欲が現れやすいものに手を出してしまったのです。

 自業自得ともいえます。
 ミスラ君は魔術を通して堅実に生きることの大切さを教えてくれたと、私は思います。

 また、感想文を書くために読み返してびっくりしたことがあります。
 ミスラ君の「高が進歩した催眠術に過ぎないのです」という言葉です。

 それまで私は、ミスラ君はずっとハッサン・カン直伝の魔術を使っていたのだと思っていました。
 でもそれは、もしかすると私が考える「魔術」ではなく、ただの「催眠術」なのではないか。
 そういう風に疑うこともできるのでは、と思いはじめました。

 ミスラ君は「魔術」で花を出し入れしたりランプをくるくる回したり、書棚の本を操作しました。
 そのことは「私」が催眠術にかかっていた結果なんじゃないかという気がしてきました。

 目撃者は「私」しかいなかったのです。
 唯一の他の登場人物であるミスラ君のお手伝いさんは部屋にはいませんでした。
 「私」の体験がミスラ君によって操られていることは明らかです。

 最後に「私」は夢から覚めます。
 それは、まるで催眠術から戻ってきたような状態でした。

 ミスラ君はそもそも「夢を見せる魔術を使った」とは一言もいっていません。
 ということは、ミスラ君は魔術師ではなく催眠術師だったのかもしれません。

 このことに思い当たったとき、私は小説の本当のタイトルは『魔術』ではなく『催眠術』なのではないかと思いました。

 だから『魔術』という題の小説を読んでいると思っている時点で、私たちはミスラ君の掌の上で転がされているだけなのかもしれません。

(85行,原稿用紙4枚と5行)

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