坂口安吾『堕落論』解説と感想|人間は墜ちぬくためには弱すぎる

※引用はすべて坂口安吾『堕落論』角川文庫による

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あらすじ

 <人間だから墜ちるのであり、生きているから墜ちるだけだ。>
 『堕落論』は戦後間もない時期に発表され、日本中に衝撃を与えた。
 人間の本性は堕落であるということを、武士道や特攻隊、未亡人や天皇を例に取りながら論じる。

解説と感想

 堕落論が発表されたのは1946年(昭和21年)4月。それゆえ戦時と戦後を比較しながら、論を進めています。
 少し長いですが冒頭を引用します。

半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかえりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがわじいつの日にか御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかづくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。
(106頁)

 坂口安吾の言いたいことは、この書き出しにほぼ集約されていると私は思います。
 人間の本性・本能は堕落であり、それを抑えるシステムが存在することで、かろうじて人は堕落しないでいられる、という考え方です。
 人間の本性は悪であり、「礼」による秩序を重んじた性悪説の考え方に近いようなことを言っています。

 たとえば武士道。
 忠君の仇を討つために真の復讐の気持ちを持ち足跡を追った忠君はどれだけいるだろうか。昨日の敵は今日の友、といった楽天性が日本人の本性なのだ、と坂口安吾は指摘します。
 武士道は「人性や本能に対する禁止事項」(109頁)であり、人間に対して対極に位置するものであると彼は見ます。武士道の反対こそが日本人らしいということを主張し、旧来の価値観を破壊しようと試みたのでしょうか。

あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。
(115頁)

 戦時下の日本においては堕落はなかったと坂口安吾は述べます。「焼け野原において娘達の笑顔を探すのが楽しみであった」(115頁)と書いているように、当時の東京においては人々は堕落せず、「泡沫のような虚しい幻影」の「驚くべき愛情」の中で暮らしていたと語っています。

 彼自身が「幻影」と名づけたように、堕落のない人間社会は長続きしません。
 特攻隊の勇士も、使徒たる未亡人も、あるいは天皇でさえも、虚しい幻想にすぎないと述べています。
 しかしそれが幻想であることに悲観することはない、むしろ真実の人間らしさというものが、終戦によって立ち上がってきたのだと坂口は力強く語ります。

六十七十の将軍達が切腹もせず轡を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は滅びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ墜ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。私はハラキリを好まない。
(116頁)

 戦争は終わり、人間は人間へ戻ってきた。
 人間は堕落する。聖女も勇士も義士さえも堕落する。
 堕落が悪いことだと言っているのではなくて、堕落こそが人間を人間たらしめ、しかも人間を救う便利な近道だと、坂口は言っているのです。

人間だから墜ちるのであり、生きているから墜ちるだけだ。だが人間は永遠に墜ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、墜ちぬくためには弱すぎる。
(118頁)

 各人が自分自身の正しく墜ちる道を見つけること。
 自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすこと。
 坂口安吾が戦後間もない時期に発表した『堕落論』は、戦後日本人が強く「墜ちる」ための道標のようなものだったと私は思います。

おわりに

KKc
お読みいただきありがとうございました。

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