目次
あらすじ
16歳の少女スター・カーターは親友のカリルを警官に銃殺された。
カリルは「黒人」だった。
スターは差別・正義・憎しみに対して「声」を頼りに震えながらも立ち向かう。
そこに優しい言葉はなかった。
カリルの死は決意のはじまりに過ぎない。
読書感想文(2000字、原稿用紙5枚)
格闘ゲームをやっていて「国へ帰るんだな。お前にも家族がいるだろう」という勝利の決めゼリフを言うキャラクターに出会いました。
世界各国から格闘家が集まりチャンピオンを決めるという設定のゲームのため、どの選手にも帰るべき故郷が存在していることを背景とした言動です。
格闘家というと、どうしても「乱暴な人かもしれない」という先入観を持ちがちですが、考えてみれば彼らは闘うことによって生計を維持したり、己の修行の糧としたり、ただ愉しみのためだったり、プライドのためだったり、さまざまな理由でそういうことをしているはずです。それぞれに人生の背景は違います。
朝日と共に起きてトイレをすませランニングウェアに着替えて外を走る。帰ってきたらシャワーを浴びて身支度を、朝食を準備してゆっくり食べる。食器を洗ったらガスの元栓や電気をすべて消して戸締り確認、出発。そんな「普通の」日常を過ごしている人が格闘家である可能性もゼロではありません。
あるいはスラム街でケンカに明け暮れ、夜な夜な酒とギャンブルに浸っているような人が格闘家である可能性もゼロではありません。
ちょっと想像しただけで「格闘家」という属性だけでひとくくりにするのは間違っているとわかります。「格闘家」は彼らの「顔」の一側面であってすべてではありません。
彼らには彼らの生活があり、帰るべき国があり、勝利を祈る家族がいます。
『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』の主人公であるスターも「二つの顔」を持っています。
一つは「黒人」の顔。彼女の家のあるガーデン・ハイツは主に黒人が暮らす地域。そこで彼女は「黒人の英語」を話します。
もう一つは「白人」の顔。父親の意向によりスターは「白人のお金持ち学校」に通っています。そこで彼女は「白人の英語」を話します。
ある日スターは親友であるカリルを警官に銃殺されます。カリルにまったく非はありませんでした。警官の言いがかり(ギャングのような服装をしている!)とか恐れ(こいつは銃を持っている危険人物だ!)によりカリルは命を落としました。
警官には帰るべき家があり、守るべき妻と子どもがおり、「悪い黒人」を排除する使命がありました。
でも、カリルにも帰るべき家があり、守るべき仲間がおり、楽しく愉快に暮らす権利があるはずです。
格闘ゲームのキャラクターのように「お前にも家族がいるだろう」という想像力を警官がわずかでも持つことができれば、カリルはまだ天国へ行かずともよかったかもしれません。
警官の想像力を停止させたのは、彼の職業観・偏見・差別などからくる「正義感」です。
警官は「殺人という悪いこと」を行ったつもりはこれっぽっちもありません。「殺人というよいこと」を行ったと考えているのです。
世の中を物騒にするのはいつも悪とは限りません。正義が混乱の元となる場合もあります。
「正義」と「悪」が衝突したときのみならず、「正義」と「正義」が衝突したときにも争いは起こります。
「ヘイトが間違っている」という「正しいこと」と「ヘイトは間違っていない」という「正しいこと」はどちらもそれぞれの立場から見れば「正義」であり、一方から見れば「悪」です。
「正義」か「悪」かでものごとをとらえるより「正義」が世の中には無数に存在しているととらえるほうが理解のためには有用な知見かもしれません。「正義」の対義語は「悪」ではなく「(別の)正義」だとあるロックバンドも歌っています。
私たちが心がけなければならないのは自分が100%「正しいこと」をしていると信じているときでも、それは誰かにとっての「正しいこと」と相いれない可能性を考慮に入れることです。
もちろん自分にとっての「正しさ」が誰かにとっての「悪」になることも災いの元ですが、どちらかといえば世界で起きる「戦い」は「正しさ」がぶつかった結果であることが多いように私は感じます。アムロ・レイとシャア・アズナブルのように。
「正しさ」をつらぬいた結果、誰かと、何かと、世界と衝突しなければならないと予測されるとき、『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』物語はじめのスターのように震えてしまいたくもなりますが、重要なのはそれでも自分の信じる「正しさ」を続けていくこと、震えながらも進んでいくことだと私は思います。
(1755字、原稿用紙4枚と17行)
おわりに
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