目次
あらすじ
陽子は絵本作家。デビュー作がベストセラーになった。夫は政治家。
晴美は新聞記者。ふたりは親友である。ともに、幼少時、親に捨てられた過去を持っていた。
ある日、陽子の息子が誘拐された。
「息子を返して欲しくば、真実を公開しろ」という脅迫状がファックスで届く。
「真実」とは何か。
夫の政治家生命のために、頼れるのは晴美だけだった。
感想
<人間は創作家であり、解迷者であり、偶然の救済者である。もし然らずとせば、いかにしてわれ人間たるに堪え得ようぞ!>
(ニーチェ(竹山道雄訳)『ツァラトストラかく語りき』上巻,新潮文庫,330頁)
この世には、一人として境遇が同じ人間はいない。すべての人の境遇は異なる。
タイトルの通り、本作は二人の女性の境遇がテーマである。彼女らは一見したところ似たような境遇で育ったが、その後に歩んでいる人生は違う。たとえば職業。絵本作家とジャーナリスト(どちらも「文章を書くことがある」という点では同じだけれど、別物)。
「生まれた環境でその後の人生がすべて決まるわけではない。人生は自分で作っていくことが可能なのだ」というメッセージを込めた、と著者・湊かなえがどこかのインタビューで言っていた。
冒頭にニーチェを引用したのは、私がなんとなくその言葉を覚えていたからです。
ニーチェは過ぎ去ったことを「こうだった」と考えるのではなく、「私がそのように望んだのだ」と考えることを提案します。それを「創造」と呼び、またそれを行う人間のことを「偶然の救済者」と称したのでした(話が難しくなるにつれて敬語になってきたぞ)。ニーチェは主体的に人生を「選び取った」と考える人間を理想的だと考えました(たぶん)。
未来のことはわからない。そして、過去のことは変わらない。
事実を変えることができるのは、未来だけです。過去の事実は変えられない。でも、解釈を変えることはできる。過去の事象をすべて「わたしが欲したことだ」と考えることはできる。それができれば、毎日とても健全に生きられると私は思います。
そして、過去=境遇ととらえれば、ニーチェと湊かなえの言いたいことがなんとなく繋がるような気がします。
「自分の境遇はこうだったから、今がこうあるのは仕方ないよね」ではなく、「自分の境遇はこうで今はこう(で、私はそうなるように望んだ)。そして未来はこう(よい方向に)なるように欲していく」という「意志」を持って生きていくこと。「イヤミスの女王」湊かなえが達したにしては、意外な境地だと思いました。
ドラマ化されることを前提に書かれた作品だということなので、視聴者に配慮したのかもしれません。考えてみれば、なんとなくテレビを観ていて、後味が嫌な映像が流されていたら、嫌ですものね。よくわからないけど、製作者サイドも大変だ。
おわりに
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