※引用はすべて角川文庫『城の崎にて・小僧の神様』による
目次
あらすじ
小僧・仙吉は噂話を聞いて寿司の屋台に向かった。
しかしお金が足りず食べられなかった上に恥をかく。
数日後、小僧とふと出会った議員Aは彼に寿司をおごる。
小僧はその議員のことを神様のように思うのだった。
広告
【読書感想文】原稿用紙3枚(1200字,60行)
わたしは『小僧の神様』は小僧・仙吉の純粋さを楽しむ小説だと思いました。彼がお寿司を食べたあとの感動は、とてもよいものだと思います。
『小僧の神様』の仙吉はいつの日かお寿司をいつでも食べられるような身分になりたいと思っていますが、今のところそれはかなわぬ願いです。
そこへ現われたのが若い議員のA。彼は仙吉がお寿司の屋台で恥をかいたことを知っていますが、偶然仙吉の働くお店に立ち寄ります。
議員Aは仙吉を連れ出しなじみの寿司屋に置きます。そして「私は先に帰るから、充分食べておくれ」と言い残して立ち去ります。
仙吉は「餓え切った瘦せ犬が不時の食にありついたかのように」がつがつとお寿司をなんと三人前も平らげてしまいます。食べ終わるまで「なんであの人は自分にごちそうしてくれるんだろう」とは考えませんでした。よほどうれしかったのだと思います。また、寿司屋のおかみさんは「粋な人なんだ」と議員Aのことをほめます。私もその通りだと思いました。見ず知らずの少年にお寿司をごちそうするなんて、私にはできません。いや、議員になったらできるかもしれませんけど。議員はお金持ちなイメージがあります。
さて、その「いいこと」をした張本人である議員Aはなぜか罪悪感を持ってしまいます。「いい人」の行いをちょっと後悔しています。「俺のような気の小さい人間は全く軽々しくそんなことをするものじゃあ、ないよ」と自分の奥さんに語るのですから。
なぜでしょうか。仙吉が食べたかったお寿司をごちそうしたのですから、もっと胸を張って「俺はよいことをしたのだ」と言えばいいのにと私は思いました。
私が思うに、議員Aがそれをできなかったのはきっと「気の小さい」せいではなくて、そういうことに慣れていなかったからでしょう。はじめて(もしくは二回目とか)「いい行い」をしたので、なんだかもやもやした気持ちになってしまったのだと思います。
私もはじめて、すれ違えないような狭い道で、立ち止まり道をゆずるときはちょっと緊張しました。ですが何回もやっているうちに自然とそれができるようになったと思います。何事も慣れです。
仙吉も<あの客は只者ではない><悲しい時、苦しい時にかならず「あの客」を想った。それは想うだけで或る慰めになった。>とたいへん議員Aに感謝の気持ちをよせています。
だから私は議員Aは胸を張ってこれからも「いいこと」を続けていってほしいと思います。「一日一善」という言葉があるように、そういう心がけでみんなが生活すれば、世界はもっとよいところになるはずです。
(57行,原稿用紙2枚と17行)
広告
おわりに
そのほかの「読書感想文」はこちらから。