目次
あらすじ
「私」が出会った医者・勝呂は戦争中に生体解剖事件に関わっていた。
次に物語は勝呂とその同僚・戸田、そして看護婦の上田の視点から語られる。
彼らは何を考え生体解剖に参加したのか。
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【読書感想文】原稿用紙3枚(1200字,60行)
『海と毒薬』で行われた生体解剖実験の目的は3つです。
「血の代わりに塩水を入れても大丈夫なのはどこまでか?」はたぶん輸血用の血液が足りない中で、どれくらい節約できるかということを知るためにやったのだろうなと思いました。
「肺を切り取ったとき、死なない量はどこまでか?」は肺の病気を治療しようとしたとき、手術でとり除いていたことに関わるものです。切り取っても大丈夫な境目がわかれば、大きく肺がおかされていた人も助かるようになるかもしれません。
「空気を注射したとき、どのくらいまで人は耐えられるのか?」はたぶん医療とか人命救助には関係のないことだと思います。犯罪者や敵国の兵士を殺すときに、銃弾以外でできるのかを確かめたかったのだと私は思います。ほんの少しで死ぬのであれば、弾丸を持ち運ぶより注射器ひとつを携帯したほうが軽いしスペースもとらないし、なにより「治療だ」とか「栄養剤だ」とか言い訳をして殺すことができます。ピストルやナイフだったら、出した瞬間に相手が警戒してしまうかもしれません。
さて、ふつうの人だったら「生きた人間で実験をしろ」と言われたら断ります。少なくとも私が医師であったならノーと言います。ということは『海と毒薬』に登場する生体解剖参加者たちは、「ふつう」の状況になかったのだと思われます。
『海と毒薬』の場面は戦争中です。これは「異常」な状況です。人間を殺すことが「ふつう」なのですから異常な状況です。戦争中は相手国の人のことを「人ではない」と見なしていたそうです。「人じゃないのだから殺しても平気」という乱暴な理屈でした。そういう「人の命が軽んじられるとき」にアメリカ人という「人でないもの」で実験をするというのが、この小説での理屈です。私はいやな気持ちになりました。どう考えたってアメリカ人も人間ですから、だまして実験をして殺してしまうことがよいはずがありません。
「あの時だってどうにも仕方がなかったのだが、これからだって自信がない」と勝呂は言います。戸田は「俺もお前もこんな時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけや」と語ります。彼らは生体解剖の現場にいるとき、特別何の感情も持ちませんでした。心の苦しみや生々しい恐怖、自分を責める気持ちはぜんぜんなかったと『海と毒薬』の中にはそう書かれています。
人間は戦争中のような「異常な状況」に置かれると「ふつうの思考」で「ふつうの行動」がとれなくなってしまう。こう書くと当然すぎることですが、『海と毒薬』はそのことを強く私に突きつけてくる小説でした。
(57行,原稿用紙2枚と17行)