目次
あらすじ
「ケーベル先生、さようなら」
「ああ。よき音楽の日々を」
瀧廉太郎は結核により享年24歳でこの世を去りました。
天才はどのようにして曲を作り、死に絶望したのか?
「天才とは、他の人たちが諦めてしまった天井に挑み続け、ついには破ってしまった人間のことだ」
読書感想文(2000字、原稿用紙5枚)
「安西先生、バスケがしたいです」
体育館に眼鏡をかけたふくよかな白髪の教師がたたずんでいます。
対峙するのは長髪の男子高校生。
体育館の騒然たる様子を察知して、教師は現れました。
生徒はモップ等を振り回して暴れまわっていましたが、恩師の登場に動揺します。
そして、頭を下げ泣きながら「バスケがしたいです」と絞り出すように感情を放ちました。
マンガ・スラムダンクの名場面です。
私はマンガを読んで「バスケがしたいです」を知りましたが、あまりにも有名な言葉であるため、マンガを読む前に知ってしまう人も多いと聞きます。
そのような方は、該当する男子高校生が登場したとたん、
「出てきたぞ。この男が例のシーンの高校生か」
と名シーンの予感にときめき、
「不良行動ばかりしているけど、いつバスケしたがるんだろう」
最終的な一件落着を知りながらも、わくわくしてページをめくることになります。
バスケット部に恨みがあり部活を壊したいと暴れる彼を、どうやって例のバスケをやりたがるシーンまでもっていくか、決着がわかっていながらもマンガを楽しく読めることだろうと思いました。
私たちは、エンディングを知っている物語であっても、何度でも楽しむことができます。
ジブリ映画『千と千尋の神隠し』はハッピーエンドになることを知っていても、冒頭で両親が豚化するシーンでは「これから先大丈夫か?」とハラハラしてしまいます。
『スターウォーズ』初期三部作は、ダース・ベイダーの正体を知ることで2回目以降の鑑賞がより楽しくなります。
『アンパンマン』は最後にバイキンマンがこらしめられることがわかっていても、アンパンマンが一旦ピンチになる場面にどきどきします。
物語作品に対して、いわゆる「ネタバレ」を嫌う人もいますが、ほんとうの名作は「ネタバレ」されてもその面白さはちっとも傷つかないと私は思います。
考えてみれば、人間も「いずれは死ぬ」という最大の「ネタバレ」を抱えて生きています。
その「ネタバレ」の大きさに耐えかねてしまう人もいますが、ほとんどの人は「ネタバレ」をされても問題なく暮らしています。
「死ぬくらいで胸を張るな。私だっていつかは死ぬ。」
「君や私だけじゃない。皆死ぬのだ。でも、皆、必死で生きている。死ぬことが分かっていてもな。きっと人はそういうものなのだ。」
『廉太郎ノオト』作中にもこんな言葉が出てきます。
最期がわかっていても、人間は生きることができる生き物なのだと思いました。
私はこの小説を読む前に、ウィキペディアやあらすじを読んで、瀧廉太郎が志半ばで夭折することを知っていました。
たぶん残りページがわずかになったところだろうな、と思いつつも、廉太郎がいつ死ぬのか、と考えながら読みました。
たぶん不治の病だろうな、と思いつつも、廉太郎がどうやって死ぬのか、予想しながら読みました。
同じような読み方で『君の膵臓をたべたい』に触れましたが、夭折の仕方がいい意味で「予想を裏切られた」ので、楽しい読書だった記憶があります。
「メメントモリ」という言葉がありますが、「最期」を頭の片隅にイメージしながら生きることは私たちの人生にとってプラスになることが多いのでは、と思いました。
ニュースなどで「終活」という「どういう死に方をしたいか」を真剣に考えるおじい様おばあ様の取り組みを見たことがありますが、きっと「終活」を行った方と行わない方は、「死に方」だけではなく「最期までの生き方」も充実することだろうと思います。
アインシュタインが長生きしたことを知っている私たちは、「天才は長い生涯でいろんな仕事を残す」と考えがちですが、滝廉太郎の生涯の短さを知ると、そうでもないことに気づきます。
天才に限らず、人間の命はいつ終わるか、どれだけ続くかわかりません。
だからといって「明日死ぬかも」で適当に生きるのではなく「明日死ぬかも」で真剣に生きることが、他の動物と違い、死ぬ前に死ぬことを知ることができた人間という生物の長所であり、「人間らしい」生き方なのではないかと私は思いました。
(1687字、原稿用紙4枚と18行)
おわりに
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