目次
あらすじ
広島に原爆が落とされてから約75年。
被爆者は年々世を去っていく。
「このままでは、原爆のことが忘れられてしまう」
被爆者の声を絵に写し取る「平和のバトン」が作られた。
読書感想文(2000字、原稿用紙5枚)
何かを別の何かに変換するのは、とても苦労する作業です。
有名な話の「屏風に書かれたトラを捕まえてみよ」はむずかしい。
「屏風からトラを出す」のも、同じくらいむずかしいです。現代だったらAR技術で出せそうですが。
本を読んで感想文を書くのは、文章を文章にする作業なので、わりとイージーです。この感想文を書くのはある程度時間がかかってますが。
ギターの音を聴いてピアノで再現するのは、音を音にする作業なので、私はできませんが、たぶん音楽が得意な方は朝飯前だと想像しています。
景色を見て写生するのは、視覚情報を視覚情報にする作業なので、私は得意ではありませんが、さっと描ける人はかけると思います。
記憶を頼りに絵を描くのはむずかしいです。
「きのうの晩ごはんを描いてください」と言われても、私はきっとみそ汁の具をぜんぶ上手く描けないでしょう。それどころか、すべてのメニューを思い出せるかどうかもあやしい。
75年前のことはもっとむずかしいです。
いくら強烈な記憶とはいえ、人間は忘れる生き物です。
そしてもっと難しいのが、そのことを絵にするのは他人だということです。
記憶を言葉に変え、言葉を油絵で表現する。
『平和のバトン』において、その作業は同一人物で行いません。
記憶から言葉、言葉から言葉、言葉から油絵、という最低三回の変換が行われる上、他人同士での変換も加わっています。
何人かで、ある伝言を耳打ちで伝えていくと、必ず最初と最後の伝言は相違するという知見がありますが、『平和のバトン』プロジェクトも実際の原爆の体験とは必ず細部で相違があるはずです。
でも、相違があるからといって、私はそれを「偽物」だと言うつもりはありません。
誰かとコミュニケーションして「そういえばこんな話を思い出した」となるのは、頭がフル回転して最高に創造的になっているときです。
原爆証言者と美術高校生は体験を油絵にするために、何度も何度も打合せを重ねます。
証言者は思い出すために頭を使い、高校生は描きとめるために頭を使う。
そうして思考を深めた結果、「原爆はこんな話だった」と証言者は思い出し、それを高校生がキャンパスに固定します。
完成した油絵の出来が良くても悪くても、どちらでもいいと私は思います。
大切なのは絵を描くことではなく、原爆について風化させない努力をすることです。
記憶をリアルに描くのもいいですが、美術高校生にとって、リアルに想像したこと、リアルに創造したことの方がより人生の糧になったと思います。
「平和のバトン」は語ることを絵にした、という見える形で渡されたのではなく、語ることを絵にする過程で密な交流ができた、という見えない形で渡されたのだと私は想像しました。
人の気持ちを汲み取ることで世界を巻き込み平和な渦を作るのは、想像力です。
誰かが誰かの思いを完全に理解するのは不可能です。
喜びも、悲しみも、句読点のない思いも、完全に分かち合えると思うのは理想論です。
今の広島の景色を見て、原爆当時の状況を鮮明に想像するのは、戦争を経験していない世代にとって簡単ではありません。
でも、人間には想像力があります。
あいまいにでも、他人の気持ちを想像することができます。
誰かの話を聞いて、自分を重ね合わせることができます。
75年の月日を超えて、「自分がそうであったら」の場合に身を置くことができます。
焼かれた街で、嘆く人しかいない光景における苦しみを共有することができます。
原爆で変わり果てた世界を、対話によって手探りで見つけて、薄暗く、時には鮮やかな色彩で油絵にする。
「平和のバトン」を渡し、受け取りあう証言者と高校生はのちの世の中から見れば「名もなき人」ですが、彼らは燦然と輝く平和の歴史の一ページを担っていると私は強く思います。
(1575字、原稿用紙4枚と12行)
おわりに
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