※引用はすべて太宰治『斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 外七篇』文春文庫 による
目次
あらすじ
「第一の手記」では大庭葉蔵の幼いころの体験が語られる。「人間がわからない」彼は道化を演じて生活する。
「第二の手記」で葉蔵は学生となるが、出会った女性と心中事件を起こす。
「第三の手記」で彼は結婚し一時立ち直るが、結局「人間失格」となり青森で余生を過ごした。
冒頭の一文
「はしがき」
<私は、その男の写真を三葉、見たことがある。>
(180頁)
「第一の手記」
<恥の多い生涯を送って来ました。>
(183頁)
「第二の手記」
<海の、波打ち際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学期がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉とともに、青い海を背景にして、その絢爛たる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を鏤めて漂い、波に乗せられ再び波打ち際に打ち返される。>
(197頁)
「第三の手記」
<竹一の予言の、一つは当たり、一つは、はずれました。>
(242頁)
【読書感想文】原稿用紙3枚(1200字,60行)
私が太宰治『人間失格』を読んで気になったところは「孤独な一行」です。
『人間失格』は改行がされているところとされていないところの差が激しく、極端なときには数ページも改行がされず文章が続いています。
そんな小説ですから、ふいに表れる「孤独な一行」は私の印象に強く残りました。
「孤独な一行」は私が勝手につけた名前です。ある行に一つの文章しか存在しない状態のことです。
たとえば、こんな感じです。
「恥の多い生涯を送って来ました。」
「侘びしい。」
「お茶目。」
「それからの日々の、自分の不安と恐怖。」
「堀木。」
「飲み残した一杯のアブサン。」
「蟾蜍。」
「堀木と自分。」
「神に問う。信頼は罪なりや。」(これは最初の「。」を「、」と考えました)
「地獄。」
「人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間でなくなりました。」
どれもその文章が置かれた場面が想像できます。
その理由の大部分は、『人間失格』を読んでいるときに「孤独な一行ってすごいな!」と私が感動していたことにあると思いますが、その他にも、きっと、太宰治がこの一行を心を込めて書いていたことにもあると思います。
「孤独な一行」は太宰治の気持ち、そして彼の全体重を乗せて書かれていると感じました。だからこそこれらの文章はグッとくるものがあるのだと私は思います。
ちなみにこのテクニックは太宰治の他の作品でも使われています。
『桜桃』では「涙の谷。」
『斜陽』では「おわかりになりまして?」
『ダス・ゲマイネ』では「はっとはじめて気づいた。」
『人間失格』を読んで太宰治のこのような特徴に私ははっとはじめて気がつきました。
彼は小説を一生懸命書いていたのだと深く実感しました。何を当たり前のことを、と言われるようなことを書きましたけど、ほんとうに、素直に、そう思ったのです。太宰治の小説を読むのは『人間失格』が初めてではありませんが、違う作品を読むたびに新たな発見があります。
だから私は太宰治の小説が大好きです。
(54行,原稿用紙2枚と14行)
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【読書感想文】原稿用紙4枚(1600字,80行)
「あのひとのお父さんが悪いのですよ。」
これは廃人すなわち「人間失格」の烙印を押された大庭葉蔵についてのマダムのコメントです。彼女は彼と同棲したり、薬を飲んで倒れたときにかけつけてくれたり、かなり葉蔵に好意を抱いていました。なので彼が「人間失格」状態になったのは彼自身のせいではなくて、彼の父親のせいであると決めつけて思い込んでいるのだと私は考えました。好きだった人が根本的にだめなやつだと認めることは誰にだって難しい。マダムは大庭葉蔵が書いた『人間失格』のノートを全部読んだと言っています。その中にもこういう文章があります。
「父が死んだことを知ってから、自分はいよいよ腑抜けたようになりました。父が、もういない、自分の胸中から一刻も離れなかったあの懐かしくおそろしい存在が、もういない、自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。自分の苦悩の壺がやけに重かったのも、あの父のせいではなかろうかとさえ思われました。まるで、張合いが抜けました。苦悩する能力をさえ失いました。」
葉蔵自身も自分の苦しみは父親が原因なんじゃないかな、と疑っています。私はこれを発見して、マダムの「父親悪者説」は正しいのかもしれないと思いはじめました。
さて、「第一の手記」で葉蔵は生まれ育った青森の家について語っています。彼は食事の時間がとても嫌だったとふりかえります。家族十人が薄暗い部屋に集まってもくもくとご飯を食べるということは、私でも苦痛に感じるだろうと思いました。
ここで注意しなければならないことは、その陰惨な家庭を作り上げたのは葉蔵の父親だということです。仮に葉蔵が「人間失格」となった一因に家庭環境があったとしたら、その大元の原因は、父親であるということになります。
「イヤなことを、イヤと言えず、また、好きなことも、おずおずと盗むように、きわめてにがく味わい、そうして言い知れぬ恐怖感にもだえるのでした。」
葉蔵は幼いころから「道化」を演じていました。「道化を演じる」ということは他人に対する外面と、自分に対する外面とを区別して生活するということですから、それを小さいときからやっていた葉蔵の心がある時点で壊れてしまうのは当然といえば当然であると言うことができると思います。心がふたつに引き裂かれ、それを続けていくことでさらに両者が離れていく悪循環。葉蔵の心理状態はそんなふうだったと、私は思いました。
さらに、内に思っていることと、外に向かって言うことが違っていたのは葉蔵だけではありませんでした。青森において父の「同士たち」も同じようにふるまいます。彼らは演説がまったくわけがわからない、と裏で父親の文句を言っておきながら、いざ本人を目の前にすると、すらすらと嬉しそうに賞賛の言葉を並べます。こんな環境にいたら、葉蔵が「道化」をやめることは怖くてできなかっただろうと思います。「人間」は何を考えているのかが表面の態度からわからない。だから「触らぬ神に祟りなし」の気持ちで葉蔵はひたすら「人間」のご機嫌をとっていたのだろうと思います。
さて、ここまで確認してきたところによると、マダムの「彼の父親が悪い」発言はけっこう当たっていると私は思いました。父が作り出した「家」や「同士たち」が葉蔵をむしばんでいたと考えることはそんなに的外れではないと思います。
自分の身を守るために苦肉の策で産み出した「道化」が、かえって彼の心を修復不可能に破壊しつくしてしまったことはとても悲しいことです。葉蔵にとって「道化」はまさに「諸刃の剣」でした。それに彼が気づくことができたなら、「人間失格」の運命を避けられたのかもしれないと思いました。
(80行,原稿用紙4枚ぴったり)
【読書感想文】原稿用紙5枚(2000字,100行)
「第一の手記」で気になる文章がありました。
<人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べねばならぬ。>
私はこれを読んでなるほど、と思いました。
『人間失格』の中で「めしを食べる」ことと「働く」ことは深いところでリンクしている。
また、「働く」は「生きる」と同じ意味の言葉で、人間は働かなければ「死ぬ」。
『人間失格』にはその二つのシステムが組み込まれているのだと思いました。
主人公・大庭葉蔵は「第三の手記」でシヅ子と同棲し、マンガを描いてお金をもらうようになります。好きな人と一緒に暮らし、なりたかった絵を描く職業になれたのですから、ふつうだったら彼は幸せになっているはずです。ですが葉蔵はそれまでとあまり変わらず、すっきりしない態度で生活していました。
<シヅ子と「天下晴れて」同棲ということになり、これまた、シヅ子の奔走のおかげで自分の漫画も案外お金になって、自分はそのお金で、お酒も、煙草も買いましたが、自分の心細さ、うっとうしさは、いよいよつのるばかりなのでした。>
シヅ子と結婚をして、連れ子のシゲ子をかわいがる「人間らしい」生活を送っているはずなのに、「人間の生活というものが、見当つかないのです。」と告白していた幼いころとほとんど心境に変わるところが見られません。
どういうことでしょうか。
私はこれは、マンガを描くことで稼いだお金を、お酒やタバコにしか使わなかったからだろうと思いました。つまり「働くためにめしを食べる」ことをしなかった。だから葉蔵は、生活が変わっても浮かない顔から抜け出せなかったのでしょう。もし仮に彼が稼いだお金で、なにかしらの食べるものを買っていたとしたら、結婚生活も少しは変わっていたのかもしれないと思いました。
結局、葉蔵はシヅ子と別れてマダムのところで寝泊りするようになります。そして「信頼の天才」ヨシ子と出会い、結婚しました。二回目のの結婚生活は次のように書かれています。
<築地、隅田川の近く、木造の二階建ての小さいアパートの階下の一室を借り、ふたりで住み、酒は止めて、そろそろ自分の定まった職業になりかけて来た漫画の仕事に精を出し、夕食後は二人で映画を見に出かけ、帰りには、喫茶店などにはいり、また、花の鉢を買ったりして、いや、それよりも自分をしんから信頼してくれているこの小さい花嫁の言葉を聞き、動作を見ているのが楽しく、これは自分もひょっとしたら、いまにだんだん人間らしいものになることができて、悲惨な死に方などせずにすむのではなかろうかという甘い思いを幽かに胸にあたためはじめていた>
私が『人間失格』を読んだところ、ヨシ子が結婚後に働いていたという記述はありませんでした。葉蔵と実家の縁はほとんど切れていたはずですから、彼らが食べていたのは葉蔵の漫画家としての収入によるおかげであったと考えられます。
彼がヨシ子との生活に「人間らしいもの」を感じることができたのは、「人間は食べるために働く」という『人間失格』における基本原理を忠実に実行していたからだと私は思いました。
さらに、ヨシ子が汚されて、彼がその「人間らしい」生活を失うきっかけになった事件も「食べること」と「働くこと」に原因があります。
彼女が損なわれたのは、葉蔵が堀木と「アントニムゲーム」で遊んでいるときでした。そのとき彼らはそら豆をヨシ子に煮るよう頼んでいました。
そら豆すなわち「食べ物」を「働くため」にではなく「遊ぶため」に「食べ」ようとしていたのです。だから「働くために食べる」ことを止めた葉蔵がその後「人間」から転落していったのはある意味当然ともいえる運命でした。
そして彼はヨシ子と別れて精神病院に入り、青森で静養することになります。そこで彼は決定的に「人間」らしく生きることができなくなってしまいました。与えられた家にただ暮らしているだけでは「働く」ことはできません。それは『人間失格』の世界においては「人間の死」を意味します。
<人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べねばならぬ。>
太宰治はひょっとしたら「人間の失格」を描くことで「働くために食べる(生きる)」という「人間らしさ」を表現したかったのかな、と思いました。
(100行,原稿用紙5枚ぴったり)
「信頼の天才」ヨシ子
『人間失格』の中で最も美しい心を持っているのはヨシ子だと私は思います。
そこで自分のために、ヨシ子について書かれた箇所をまとめてみました。
- 大庭葉蔵と出会ったのは17,18歳のとき
- 煙草屋の娘
- あだ名「ヨシちゃん」
- 色白で八重歯がある
- 葉蔵がマンホールに落ちたとき、引き上げた上に傷の手当までしてくれた
- 葉蔵に「本気で酒を止めるように」と忠告する
- 名言は「モチよ。」(「もちろん」の意)
- 信頼の天才で、無垢の信頼心を持つが、その美質により犯されてしまう
名言
恥の多い生涯を送って来ました
(183頁)
「ワザ。ワザ。」
(199頁)
われらの教師は自然の中にあり!
自然に対するパアトス!
(214頁)
「女から来たラヴ・レターで、風呂をわかしてはいった男があるそうですよ。」
(225頁)
「色魔! いるかい?」
(259頁)
「冷汗。冷汗。」
(262頁)
「この野郎。キスしてやるぞ。」
(272頁)
「僕は、女のいないところに行くんだ。」
(291頁)
ただ、一さいは過ぎて行きます。
(301頁)
……だめね、人間も、ああなっては、もう駄目ね。
(306頁)