目次
あらすじ
不妊治療の末、特別養子縁組で子どもを引き取った夫婦。
息子が六歳になったころ、実母を名乗る女性から突然「子どもを返して」と告げられる。
<どうかこれからも、一人でも多くの人に彼らの想いが伝わりますように。>
感想
タイトルの一部となっているように、『朝が来る』は「朝斗」という子どもをめぐる物語である。
いつか子どもを授かるはずだと思っていた夫婦に突きつけられた現実。問題は運やタイミングではなく、体質的なものだった。
夫婦は特別養子縁組によって「朝斗」の親となる。とりあえずの「朝が来た」。
しかし六年後、「子どもを返して欲しい」とやってきた若い女によって、事態は再度暗転する。長いトンネルを抜け、やっと迎えた「朝」は、長くは続かなかった。
地球は丸い。
私たちが朝日を目にするとき、円弧の反対側の人々は決して朝日を目視することはできない(テレビやインターネットがあるけど)。
物事には表と裏、それぞれの側面がある。「朝斗を得た」栗原家は、家族を形成していった一方で、「朝斗を失った」片倉家は家族が解体されていく。
本小説について著者・辻村深月は「一人でも多くの人に読んでほしいと、こんなにも思った本は初めてです」と語っている。
著者が自著についてこのように語る本は珍しくない。書いたからにはある程度の人に読んでもらいたいのが普通である。
しかし書き手がこのように「わざわざ」宣言するときというのは、彼らが「駆け出しの」作家であるときが多いように私は思う。デビュー間もない新人が「たくさんの方が手に取ることを願っています!」と広報活動にエネルギーを割くのは当然である。なぜなら声を大にしないと自分の「名前」を覚えてもらえないから。私たちはえてして「作家買い」というのをする。一度「お気に入り」に入った作家の作品は、よほどのことがない限り継続して購入し続ける。その最初の「とっかかり」を創り出すという点において、無名作家が「読んでください」と発言するのは理にかなっている。
しかし私が思うに、辻村深月はそのようなことをする必要のない作家である。直木賞も受賞したし、たいていの書店、図書館に彼女の小説は置かれている。読者投票型の何かしら(あえてぼやかす)でも上位常連の印象がある。
では、なぜ辻村深月は「一人でも多く読んでほしい」とわざわざ発言したのだろうか。
それはおそらく、本作が「次の辻村深月へのターニングポイント」となる小説だと彼女が心のどこかで感じたからだろうと私は考える。この作品の以前と以後で、辻村深月の小説は何かが決定的に変わった――そのように著者本人が感じたからこそ「駆け出しの」作家のように、わざわざ「広報活動」をしていたのだと思う。
今までの辻村深月が書いた作品を「夜」とすると、そこから変化した「次の」辻村深月が書く作品は「朝」のようになる。そのようなぼんやりとした見通しが著者の頭の片隅に去来したからこそ、『朝が来る』という小説が生まれたのだと私は思う。
おわりに
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