※引用はすべてニーチェ(手塚富雄訳)『この人を見よ』岩波文庫による
目次
はじめに
『この人を見よ』はニーチェが発狂する寸前に書いた自伝的書物です。
自分がどうして「反道徳的な」考えを持つに到った経緯と、自著の解説、そして自説を総決算するかのような文章も収録されています。
本書はニーチェの思想の全体像を把握する手助けとして有用です。
感想
読んでいて刺激を受けた文章を引用しながら感想を書いていきたいと思います。
ここに上げなかった文章も、どれも力強く、圧倒されっぱなしでした。
『ツァラトストラ』でニーチェ自身が「血をもって書け」と語ったように、すべての文章が「血」で書かれたことがまざまざと感じられました。
序言
<理想という嘘が、これまで現実の世界にかけられた呪いであったのだ。>
(9頁)
「理想」を追い求めることはよいことだとされているけれども、ニーチェはそれを「呪い」だと批判します。
「理想」を想像すると、それを基準にして自分の状態を評価してしまう。「理想」は理想的であるがゆえに、必然的に現在の自分よりも良い状態である、と。
「理想」を設定することで、人間は永遠に現在を肯定することができない。満たされた気持ちになることができない。
「理想」を思い描くことは、生を肯定し、人生を謳歌することを放棄した道である、と私は読み取りました。
<いつまでも弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜ君たちはわたしの花冠をむしり取ろうとしないのか。>
(13頁)
個人的に「師と弟子の関係」に大いに関心があります。
中島敦の『弟子』『山月記』『名人伝』、夏目漱石『こころ』、細田守『バケモノの子』、又吉直樹『火花』など、日本にはさまざまな「師弟小説」があります。
この文章を引用して、それら師弟小説を読み解いてみるのも面白そうだな、と思いました。
なぜわたしはこんなに賢明なのか
<私は視点を転換するすべをすっかり身につけており、たくみに行使することができる。>
(20頁)
ニーチェがいちばん得意とすること。特技だと自負しているもの。いちばん年季を入れた修行だと言えることは「かくれているところを見抜く」術だと書かれています。
まるでシャーロック・ホームズだと思いました。
<わたしの人間愛とは、他人がどういう人であるかを感じ取ることにあるのではなくて、わたしがその人を感じ取ることに耐え抜いているということにある……わたしの人間愛は絶えざる克己である。――しかしわたしに何より必要なものは孤独なのだ。>
(37頁)
ニーチェは自分のことを潔癖症だと言います。
あまりに人間についての観察力が優れているために、鋭すぎる感覚を備えているために起こる弊害。
彼の人間愛とは、己の鋭敏な感覚を押さえつけ、人間交際に「耐える」ことにあるのかも知れない。
なぜわたしはこんなに利発なのか
<戸外で自由に運動しながら生まれたのでないような思想――筋肉も祝祭に参加していないような思想には、信頼せぬこと。すべての偏見は内臓にもとづく。>
(47頁)
こういうふうに言い切るということは、ニーチェはこの考えを運動しながら思いついたということですね。
肝に銘じます。
<仕事中に、誰かが私のそばでしゃべったり、さらには思索したりすることを、わたしは決して許さないだろう。そして、読書は、つまりそれを許しておくことではないか。>
(51頁)
<一種の自己籠城こそ、精神的懐妊のとるべき第一の本能的機略である。>
(51頁)
<自分の頭でものを考える能力をまったくなくしてしまう。本をひっかきまわさなければ、考えられないのだ。彼が考えるとは、刺戟(――本から読んだ思想)に返答するということ――要するにただ反応するだけなのだ。>
(66頁)
<本を読むこと――それをわたしは悪徳と呼ぶ!>
(66頁)
読書の弊害について。
本を読むことは他人が話したり考えたりすることをひたすら聞かされているような状態であり、自分で思索するさいには、まったくの害であるという立場をとっています。
これはショウペンハウエルが『読書について』で述べたことと共通すると思います。
二つ目に引用した文章は私が『この人を見よ』でいちばんすごいと思った一文です。インターネットや書物をシャットダウンした状態でないと、よい考えは浮かばない。気をつけようと思いました(こんなサイトを持っているくせによく言う!)。
【関連リンク】「悪書は読むな―ショウペンハウエル『読書について 他二篇』」
なぜわたしはこんなによい本を書くのか
<わたしはほかにしようがないのだ。神よ、助けを与えたまえ! アーメン。>
(81頁)
マルティン・ルターの引用。ニーチェもギャグを言うんだ、と面白く感じました。
ツァラトストラ
<過去に存在したものたちを救済し、いっさいの『そうであった』を『わたしはそう欲したのだ』に造り変えること――これこそはじめて救済の名にあたいしよう。>
(156頁)
これがいわゆる「運命愛」というやつでは。
ニーチェは人生において降りかかるすべての出来事を「運命」だと見なしました。そしてその「運命」に対する手段は「すべてを肯定する」か「すべてを否定する」かのどちらかだと主張しました(確か)。
引用した文は、まさに「すべてを肯定する」という立場で人生をとらえる視点です。
今までのことを「そうだった」ではなく「わたしがそう望み、それがすべて実現したのだ」と肯定すること。これがニーチェの考える「救済」だと私は思います。
なぜわたしは一個の運命であるのか
<わたしは人間ではない。わたしはダイナマイトだ。>
(179頁)
もちろん比喩。
現代風にいうのならば、どうなるでしょう(核爆弾とか、弾道ミサイル?)。
ニーチェは自分が「これまでの思想(道徳)」を破壊する存在だということを言いたかったのだと思われます。
おわりに
『この人を見よ』はニーチェ思想がバランスよく書かれている本だと思いました。
それまで価値があると思われてきたものを無価値であると「殺した」後で、その無価値な人生を肯定し、強く生きることを説く。ニーチェは、人間として強く生きることを私たちに要請しているのだと私は思いました。