目次
あらすじ
梨乃は高校1年生。
東日本大震災の被災者であることを隠し吹奏楽部に入る。
吹奏楽部には同じく被災者で1年生の男子・紺野がいた。
「あの日」から三年後。
時間が解決するものとしないものは。
読書感想文(2000字、原稿用紙5枚)
この間、歯を抜きました。
歯科クリニックにはメンテナンスのため定期的に通っているのですが、「これ、抜いたほうがいいよ」という歯があり、思い切って抜くことにしました。
これまで周りの人が歯を抜いたときアゴが腫れているのを見て「大変だね」「痛そうだね」「口、開けられないのかい」「歯ごたえのあるものが食べられないのかよ」とか、経験したことがないにも関わらず、ないなりに抜いた人の気持ちを理解しようとしてきたつもりでしたが、いざ自分が経験するとなると、想像していたよりもずっとすさまじい体験でした。
手術当日。歯科ユニットに横になり麻酔をかけられる私。
「あ、しびれるな」と思いながらぼーっとしていたらあっという間に右下の感覚がなくなりました。その後歯を抜くために先生がすごく力を入れたにも関わらず、ぜんぜん痛みを感じませんでした。
抜歯の大変さの本番は、麻酔が切れてからでした。痛みどめ薬なしではご飯が食べられないほど、抜いたところが痛みました。
「痛みだけが真心のシルエット」とユーミンは歌いましたけれど「痛みだけが抜歯のシルエット」と思えるくらい痛みのことしか考えられない期間が続きました。
つらそうな表情をしていたからか、「大変だね」「痛そうだね」「口、開けられないのかい」「歯ごたえのあるものが食べられないのかよ」などの言葉をかけてもらえるときもありましたが、心がすさんでいたので「私の痛みは私にしかわからない。この人たちはいま口の中に痛みがないんだ」と思っていました。
そう思うことで、私はいま痛みに耐えているのだと思うことで、なぜか急に自分が偉くなったような気がしてきました。
「あの人はむかしヤンキーだったけどがんばって勉強して東大に受かった」とか「あの人は誰もが嫌がる仕事を引き受けているんだ」とか「あの人は痛みに耐えてよくがんばった」とか、そういうことに一目置いてしまうのは、「ハンディキャップのアドバンテージ」を感じてしまうのは、なぜでしょうか。
『この川のむこうに君がいる』の梨乃はそういう「ハンディキャップのアドバンテージ」を感じるのがいやだったのではと思います。
彼女が自分の過去を誰も知らない学校に進学したかったのは、自分が「被災者」という「ハンディキャップを持っていた」からではなくて、「ハンディキャップのアドバンテージを持っていると思われたくなかった」からだと思います。
私たちはハンディキャップを抱えている人が目の前にいた場合、「その人を助けなければならない」と無意識に感じてしまいます。目の前で井戸に落ちそうな子どもがいるときに「助けない」選択をとる人がめったにいないのと一緒です。
「被災者」を目の前にした日本人の多くもたぶん同じような態度をとると私は思います。私たちの脳には「被災者」を「かわいそう」な存在に知らず知らずのうちにカテゴライズしてしまう心の働きがあります。
災害を経験したことによって受けた傷とかとらえ方とかその後の生き方だとか、そういうものは同じ「被災者」だとしても一人一人絶対違うはずなのにどうしてか「被災者」でひとくくりにされてしまう。
誰かに自分を決めつけられること、誤解を押し付けられること、ラベルを貼られてしまうことはとても苦痛です。場合によっては「私のことを決めつけるな!」と叫びたくなる気持ちにもなります。私はときどき叫びます。
しかし、『この川のむこうに君がいる』の紺野はそういう苦痛を意識していないかのように明るくふるまいます。
梨乃に私は共感を覚えましたが、紺野には驚愕を覚えました。こんな「被災者」がいるのか、と。
でもよくよく考えてみれば、なにか「傷ついたできごと」があっても、それに対する自分の心持ち、とらえ方、意味のつけ方、その後の生き方というのは、明るい方を積極的に選択したとしてもべつに誰にも非難されるいわれはないでしょう。
「歯を抜いてテンション下がるわ」と考えるよりも「歯を抜いて新しくなった私」と思う方がどちらかと言えば健全な人生を歩めるような気がします。
「読書感想文を書くなんてテンション下がるわ」と考えるのではなく「読書感想文を書いたおかげで震災に対する考えが新しくなった」と考えることが健全な人生だと私は思います。これからいろんな人に本を読んで読書感想文を書くことをすすめていけたらいいなと思います。
(1800字、原稿用紙4枚と19行)
おわりに
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