※引用はすべて夏目漱石『こころ』新潮文庫による
目次
あらすじ
<上 先生と私>
「私」は鎌倉に滞在しているときに「先生」と出会う。
親密になり、東京に帰ってからも先生の家に通うようになる。
先生は奥さんと暮らしているが、謎が多い。
質問しても「今は話せない」とはぐらかされる。
そうこうしているうちに「私」は大学を卒業し地元に帰ることになった。
<中 両親と私>
「私」は実家に帰った。
父親が入院し、命がもう長くはなさそうなときに先生から手紙が届く。
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世には居ないでしょう。とくに死んでいるでしょう」
この一文を目にして「私」は列車に飛び乗った。
<下 先生と遺書>
先生の遺書には学生時代のことが書いてあった。
先生は過去に、親友Kと同じ女性に恋していた。
先生は彼を出し抜き、その女性と結婚する。今の奥さんである。
Kはそれを知り首を吊った。
先生は、Kの自殺の原因が自分であると、ずっと悩んでいた。
先生は、その経緯を「私」にだけ明かし、自殺してしまった。
「あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中にしまって置いて下さい」
読書感想文(1200字,原稿用紙3枚,60行以内)
『こころ』の主人公・「私」は先生のことをどうして先生と呼ぶのかをうまく説明できません。
<私はそれが年長者に対する私の口癖だと云って弁解した。>
14頁にこういうふうに書いてありますけれど、これは理由になっていないと私は思いました。
きっと「私」は直感、つまり第六感とか「カン」のようなもので先生のことを「先生」と呼ぶことを決めたのだと私は思います。「私」は先生のことをほんとうにすばらしい「先生」だと初対面で直感したから「先生」と呼んだのだと思います。そうすることが教わる側にとって最高の姿勢であることを「私」は知っていたのだと思います。
当たり前のことですが、人は何かを教わろうとするとき、「先生はえらい」と思って話を聞くのと「先生がいまいち」と思いながら話を聞くのでは、かなり違ってきます。
私はバドミントンをしていますが、たまにインターネットでプロ選手のプレーを観ることがあります。参考にしようと思って観るのですが、そのときに(この選手のプレーってすごいな)と思って観るのと、(あんまり上手じゃないな。調子が悪いのかな)と思って観るときでは、後日まねをしようとしたときの動きに差が出ます。(あれ、すごかったな。あんなふうに打ちたいな)と尊敬して思い出しながら動いたほうがよいプレーができるのです。
こんな経験があるので『こころ』の「私」も「先生」に出会ったときに「先生」としか呼ばなかったことがなんとなく理解することができました。
さらに「私」は先生に対して運命のようなものを感じています。
<私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうも何処かで見た事のある顔の様に思われてならなかった。然しどうしても何時何処で会った人か想い出せずにしまった。>
<私は最後に先生に向って、何処かで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないと云った。若い私はその時暗に相手も同じ様な感じを持っていはしまいかと疑った。>
私はこれらを読んだとき、恋する人のようだと感じました。ちなみに先生は「私」に対して「人違じゃないですか」と返します。「私」はがっかりしながらも、かえってますます先生への想いを強めました。たぶん先生は「学ぼうとする人」が「先生」に対してそのような気持ちを持つことの有用性を知っており、そのように振舞ったのだと私は思います。それは「先生はえらい」と思い込むこととならんで、学ぶ側の最高の姿勢のひとつだと私は思います。
(60行,原稿用紙3枚ぴったり)
おわりに
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