※引用はすべて寺山修司『家出のすすめ』新潮文庫による
目次
あらすじ
<「家出」を逃避じゃなくて、出発だとおもいこめるような力さえつけば、もう詠嘆することはないでしょう。わたしは、自分の存在を客観的に見つめ、「自分とは何か」と知ることがまず、こころの家出(中略)ではないか、と考えるのです。>(52頁)
【読書感想文】原稿用紙3枚(1200字,60行)
<わたしは、同世代のすべての若者はすべからく一度は家出をすべし、と考えています。家出してみて「家」の意味、家族のなかの自分……という客観的視野を持つことのできる若者もいるだろうし、「家」をでて、一人になることによって……東京のパチンコ屋の屋根裏でロビンソン・クルーソーのような生活から自分をつくりあげてゆくこともできるでしょう。>(63頁)
寺山修司のいう「家出」というのは、父親と自分の洗濯を一緒にすることに我慢がならなくて友達の家に無断で泊まりに行くとか、母親と口げんかをしたので一晩中カラオケで過ごすだとか、そういう一時的なものではありません。
このエッセイの中での「家出」というのは、自分の生活の基盤を家の外に移すことを指します。一人暮らしを始めるだとか、ルームシェアを始めるだとか、住み込みで働くだとか、そのような継続性のある「家出」のことを言っています。
何かを客観的に見ようとしても、自分がその中に存在してしまっていると、その、客観的に見ることのできる度合い、というか、レベルのようなものは、外から見た場合よりも低くなってしまうと私は思います。
家出をすることで、ある程度「家」から距離をとることで、若者は客観的視野をより深く持つことができるのだと彼は言っているのだと私は思います。
<家出の実践は、政治的な開放のリミットを越えたところでの、自立と自我の最初の里程標をしるすことになるでしょう。親との対話という名での、血的遺産のリレーを中断し、むしろ親とも「友情」を持てるような互角の関係を生み出すためには、幸福な家庭をも捨てなければならないのです。自分ひとりでも歩かねばならない>(76頁)
「里程標」とは、聞きなれないことばですが、要するに目印のようなものです。チェックポイントとか、達成点とかそういうものです。
家出をすることで客観的視野を得、親との関係性が新たにかたちづくられます。むりやりにでも「自分ひとりで歩く」ことで、そのような「成長」をすることができるのだと私は解釈しました。
<望郷の歌をうたうことのできるのは、故郷を捨てた者だけである。そして、母情をうたうこともまた、同じではないでしょうか?>(77頁)
「この本は高校生までに読むべし」という言葉を聞いたことがありますが、それは高校を卒業する前にこの本を読み「家出をするぞ」という決断を下さないと、そのままずるずると十数年〜数十年もの間、「家出しなくていいや」という気持ちになってしまうからではないかとも思いました。
ノー家出、ノーライフ。
(1061字,原稿用紙2枚と19行)
おまけ:寺山修司と『君の名は』
<文学で、すぐれた恋愛作品は「禁じられた恋」ばかりを書くようになった。『ロミオとジュリエット』から『君の名は』まで、うたわれたり読み継がれたりしてきたほとんど全部の恋愛作品は、禁じられた恋の恍惚と不安が主題になっているといってもいいすぎではありません。>(98頁)
寺山修司が『君の名は』について言及した文章です。
寺山修司は『君の名は』を観たのでしょうか。たぶん観たのでしょうね。
【関連リンク】「新海誠『君の名は。』あらすじと感想と名言|your name.」
おわりに
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