目次
あらすじ
佐野次郎は馬場数馬と出会い、雑誌『海賊』をつくろうと持ちかけられる。
その仲間として馬場は佐野に佐竹と太宰を紹介するが、雑誌の話は無かったことになる。
馬場と飲んだあと佐野は電車に引かれて死ぬ。
佐野は最後に「人は誰でもみんな死ぬさ」と言った。
タイトル「ダス・ゲマイネ」の意味とは?
「ダス・ゲマイネ」には二重の意味があって
「Das Gemeine」というドイツ語で「通俗性」「卑俗性」を表すことば。
津軽弁の「んだすけ、まいね(それだから、だめなんだ)」。
太宰治は青森出身なので、どちらかというと後者のほうが意味合いとしては強いと思います。
佐野次郎も最期に「~から駄目なんだ」と語っています。
【読書感想文】原稿用紙5枚(2000字,100行)
『ダス・ゲマイネ』の主人公である佐野次郎は物語の最後で命を落とします。
「頭がわるいから駄目なんだ。だらしがないから駄目なんだ」と彼は死ぬ間際に言います。
私は夏目漱石の『こころ』が頭に浮かびました。
『こころ』の登場人物である「K」は自分で自分のことを駄目だと思い込んで、自殺しました。佐野の最期にそっくりです。
『ダス・ゲマイネ』は1935年発表、『こころ』は1914年発表ですから、太宰治が『こころ』を意識して『ダス・ゲマイネ』を書いたのだったとしても、おかしくはありません。
私は、佐野次郎とKは「駄目だと思った」から死にましたが、対照的に馬場数馬は自分のことを「駄目だと思っていない」から生き残ったのだと思います。
馬場は「僕は生まれたときから死ぬるきわまで狂言を続けるぜ。僕は幽霊だ」とか、「こうしてお互いに生きているというのは、なんだか、なつかしいことでもあるな」と語ります。さらに佐野と初めて会ったときも「僕はあしたあたり死ぬかもしれないからね」と言います。
馬場はいつ人生が終わってもよいように生きているのです。
だから毎日ぶらぶらしていて、音楽学校に8年もいるのでしょう。「あした死ぬなら勉強する意味なんてない」と思っているはずです。
そのことは馬場が甘酒屋で愛用していた湯のみの文字「白馬驕不行」からも読みとれます。
これは中国・唐代の詩人崔国輔の『長楽少年行』の中の一節です。この詩の白馬は、主人がムチを忘れたので進もうとしません。
馬場は白馬の姿に自分を重ねて「白馬に対するムチのように、俺も何かがあればやれるんだ」という気持ちを持っていたに違いありません。だからこそ大金を払って湯のみを買ったのです。
『ダス・ゲマイネ』における馬場の「何か」とは雑誌『海賊』の創刊でした。
『海賊』の出版は太宰と馬場がケンカをしたことで流れますが、私は馬場がはじめからそうなるように願っていたのだと思います。なぜなら馬場は毎日遊び歩いている今の状況に満足しており「このままで良い」と考えているからです。
「何か」をすることを無意識のうちに避ける。「何か」をしなくても生きていることは楽しい。だから画を描く佐竹や小説を書く太宰に対して、馬場は敵意をむき出しにしていたのだと思います。たぶん馬場が佐野と一緒にいたのは、佐野が「何もなかった」からです。
でも最後に佐野は死にます。予兆は二人が飲んでいるときにありました。
「ほんとうの愛情は死ぬまで黙っているものだ」という馬場のひと言は、その後に訪れる佐野の死を暗示しているように私には思われます。
馬場と別れたあと佐野は電車にはねられます。馬場と同じく「何もなかった」はずの佐野がどうして命を落としたのかというと「何かをした」からです。
「走れ、電車。走れ、佐野次郎。走れ、電車。走れ、佐野次郎」とデタラメなメロディーで佐野は歌いました。
「あ、これが私の創作だ」と佐野が気づいたとき、電車のライトは彼の眼前まで迫っていました。
佐野を殺したのは馬場です。馬場は「なにもしない。今のままが良い」という価値観の男です。佐野にもそのような人間であることを望んでいたと私は思います。だから佐野が「創作をした」とき、「このままの自分では駄目なんだ」と思ったとき、「何かをした」とき、馬場と佐野はもう一緒にはいられない運命になったのです。
ゆえに佐野が小説の舞台から退場し、それと同時に『ダス・ゲマイネ』が終わりを迎えることは当然の結果でした。
そういう意味で『ダス・ゲマイネ』は馬場が佐野を殺す小説だと私は思いました。
(88行,原稿用紙4枚と8行)
おわりに
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