※引用はすべてちくま文庫『中島敦全集1』による
目次
あらすじ
ナブ・アヘ・エリバ老博士は、文字の精霊の研究を大王に命じられた。
彼が研究を進めていくにつれ、文字が人間におよぼす害が次々に発見され、驚く。
自分自身も文字の病気にかかっているらしいと気づいた博士は、大王に研究結果を報告する。
それは大王の機嫌を悪くし、彼は自宅で謹慎することを命じられる。
数日後の大地震で、博士は文字の書かれた板数百枚に押しつぶされて死んだ。
【読書感想文】原稿用紙5枚(2000字,100行)
私は「博士」の出てくる小説がけっこう好きです。
星新一のショートショートの「エヌ氏」という発明家や、『名探偵コナン』の「阿笠博士」など、「博士」という肩書きの登場人物になぜかわくわくしてしまいます。
『文字禍』の主人公はナブ・アヘ・エリバ老「博士」。博士は王様に「文字の精霊の研究をしろ」との命を受けます。まず彼は図書館に通い、書物を調べます。そこに書かれていることはぜんぜん役に立たなかったのですが、博士はある発見をします。
「単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か?」
長い時間、文字をじっと見つめていると「あれっ。これってこんな形だったっけ?」と思うことがあります。私も国語の漢字練習などで経験があります。博士もそんな状態になったのです。
ここで彼は「ただの線に意味を持たせているのは、文字の精霊なのではないか」という仮説を立てます。このように、観察したことから法則を発見するところが、彼が「博士」といわれている理由なのだなと思いました。
そして次に博士は街中を歩き回ることにしました。今度は人々を観察することで、文字のもたらすものは何かということをを推測していきます。
「着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、最早、働かなくなったのである。」
これを読んで私は「なんて理屈なんだ」と思いました。ここの部分から『文字禍』はぐっと面白くなっていきます。
ふつうは文字の読み書きができるようになると、考えられることが増え、頭が良くなると考えます。でも博士は真逆の結論を引き出しました。
何かを研究するときは、まずはじめに実験や観察によって自分が何を言いたいのか、証明したいのか、ということを決めてからとりかかるのがふつうです。博士が「文字は有害だ」という考えにいたってから、書物狂の老人のことを思い出したのもそのためです。文字のもたらす災いを証明したかったので、その老人の話を持ち出したのです。
どうして博士はこんな変な理屈を持ち出したのでしょうか。
私は博士がたった一人で研究をしていたことが、こんな結果を導いてしまったのだと思います。他の誰かが横にいれば「ちょっとおかしいんじゃないの」と方向性を修正できたかもしれません。他人の意見は貴重です。そしたら最後に、地震によって死ぬことも避けられたかもしれません。
博士は考えて抜いて何かを発見することは得意だったのかもしれませんが、それが本当かどうか確かめて検証していくようなことは苦手だったのかなと私は思いました。
ある意味自分に自信を持ちすぎていたのかもしれません。若者が「歴史とは?」と質問するシーンでもこう言っています。
「書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。」
これを歴史学者が読んだらきっと怒るだろうな、と思いました。彼らは書物だけではなくさまざまな道具や建物の跡などから歴史を考えます。手がかりは文字だけではないのです。
このときすでに博士は「文字信者」のようになっていて、文字こそがこの世界を支配しているのだ、という考えに染まってしまっていました。
これでは科学者として失格だと私は思います。
私の考える科学者は、自分が間違っているかもしれないという可能性をつねに頭の片隅に置いている人です。アインシュタインの相対性理論のように、それまでの研究では理解できないものが出てきたときに、それを素直に受け入れる姿勢ができている人を私は科学者と呼びます。
博士は「もしかしたら、文字はそんなに有害ではないかもしれない」という考えを持てませんでした。
「博士」として登場したナブ・アヘ・エリバは、そのような科学者らしからぬ態度のために「博士」の資格を奪われ、圧死させられたのだと私は考えます。それは同時に「文字は有害だ」という自らの主張を証明するかのような最期でした。
「文字は有害だ」という主張が正しいかどうかは私には判断できませんが、彼が博士として、研究者として、科学者として、いまいちな人物であったということだけは断言できます。
(99行,原稿用紙4枚と19行)
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おわりに
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