井の中の蛙と大人|『空の青さを知る人よ』感想と名言

※引用はすべて額賀澪『小説 空の青さを知る人よ』角川文庫による

目次

あらすじ

私は-私達は、探している。
どんな夢も、叶う場所を。

あかねの元恋人・慎之介が秩父市に帰ってきた。

同時に慎之介の昔の姿の生き霊「しんの」があおいの前に現れる。

空の青さを知らない人が空の青さを知る物語。

<過去と現在をつなぐ「二度目の初恋」が始まる。>

この空の青さを知った自分は、何ができるだろう。
何に、なれるだろう。

登場人物

相生あおい(あいおい・あおい)

「東京行きます。バイトしながらバンドで天下取ります」

高二の女子高生。

左目の中にホクロのある「目玉スター」。

卒業後は秩父を出て東京に行きたいと願っている。

相生あかね(あいおい・あかね)

「今度、ツナマヨのおにぎりでも、作ってみようかな」

あおいの姉。

秩父市役所の市民生活課で働く31歳。

アイボリー色のジムニーに乗っている。

両親亡き後、あおいを第一に考えて生活してきた。

金室慎之介(かなむろ・しんのすけ)

「俺……夢は叶えたろ、一応」

あかねの元彼。

大御所演歌歌手・新渡戸団吉のバックバンドのギタリストとして秩父に帰ってくる。

しんの

「モデルよりも、グラビアイドルよりも、可愛くて、綺麗なババアだ」

金室慎之介の13年前の姿で現れた男。

バンドの練習場所である「お堂」から出られない。

<あかねスペシャル>というギターを持っている。

大滝千佳(おおたき・ちか)

「あたしお嫁に行きまーす!」

あおいと同じクラスの女子。

王子様を夢見て甘い声を出し続けている。

中村正道(なかむら・まさみち)

「ご想像にお任せします!」

あかねの同僚。31歳バツイチ。

秩父市役所の観光課所属。

「兄貴、ほしくないか」とあおいに言ってしまうほどあかねと結婚したがっている。

ずるい大人の代表。

中村正嗣(なかむら・まさつぐ)

「なるほど、浦島太郎だね」

正道の一人息子。

小学五年生。

スマホを一日他人に貸すのは「普通に無理」とのこと。

タイトルの意味

井の中の蛙大海を知らず。されど空の青さを知る。
あたしは、大きな海へと出られたんだろうか。
もしかしたらここはまだ、井戸の中かも知れない。
広い世界に出たつもりになっているだけかもしれない。
どこまで走っても、結局、井戸から出られないのかもしれない。
そんな風に思ったときは、空を見上げることにしている。
ここがどこだろうと、空の青さをちゃんと見ておこう。
曇っても、雨が降っても、冷たい風に目を開けていられなくなっても、空の青さを、ちゃんと覚えていよう。
そうすれば、どこまでも走っていける。

タイトルの由来は相生あかねが好きなことわざ「井の中の蛙大海を知らず。されど空の青さを知る」です。

『空の青さを知る人よ』の舞台は埼玉県秩父市。

秩父市は盆地であり、山を越えなければ、どこへも行けない。

「盆地ってさ、結局のところ壁に囲まれてるのと同じなんだよ」のセリフが象徴するように、『空青』では登場人物が住む場所を「井の中」にたとえています。

井戸の中のカエルが外に出れないように、あおいもあかねもしんのも、秩父から出られません(慎之介はしんのを分離することで出られた)。

でも、ことわざにあるように、井の中の蛙は「空の青さ」を知っています。

『空青』で空の青さを一番知っている人はあかねですが、クライマックスであおいも慎之介も空の青さを知りました。

『空の青さを知る人よ』は空の青さを知らない人が空の青さを知る物語であり、また、空の青さを知った人がどう生きていくかを考える物語です。

余談ですが、金室慎之介がソロデビューした曲のタイトルかつあいみょんが歌う主題歌も『空の青さを知る人よ』です。

相生あかねを意識した歌詞になっているので、映画を見た後聴いてみると楽しいです。

 

名言

「あたし達は、巨大な牢獄に収容されてんの」
 「出た〜! あおいの中二リリック!」
「音を楽しむんじゃない。音が苦しむって書いて音が『苦』だよ」
「ガッカリさせないで」
「願い、叶うんだな」
「ああ、好きさ! 好きさっ、悪いか!」
「だっせえ、だっせえ、だっせえ! ゲロ沼に突き落とされた気分だよ」

読書感想文(2000字、原稿用紙5枚)

KKc
「空の青さを知る大人よ」

 過去の記憶は忌まわしい。だからお堂に閉じ込める。

 『空青』において、「13年前の記憶」は今もなお「生きて」います。

 だから慎之介もあおいも、あかねすらも、誰もが目を背けて、それをお堂に閉じ込めました。見ないように、見られないように、見なくて済むように。

 誰もがただ単純に「蓋をした」だけで、誰も「13年前の記憶」に対してちゃんと「お別れ」をしませんでした。誰もが記憶を記憶のままに固定したまま、13年が過ぎた。

 残念ながら、そんな乱暴なやり方では「記憶」は「死に」ません。

 慎之介は遠く離れてもギターの思い出を感じただろうし、秩父に帰ってきてお堂に近づいただけで昔の仲間の気配を感じただろうし、目を閉じると当時の声が聴こえたでしょう。

 「お別れ」が正しくなされなかった「13年前の記憶」は依然そこにあり、関わった人たちを苦しめていました。

 私たちには直接触れることができず、理解しあったり共感しあったりすることもできない「記憶」が13年間もお堂に「存在」していました。

 存在しないにも関わらず「13年前の記憶」は『空青』のキャラクターの生き方に深く、強く関与します。「13年前の記憶」をトラウマとして、その後の人生を生きてきました。

 人間は「実在しないものの気配を察知できる」唯一の生物です。他の生物はおそらく「実在しないもの」を想定して生きることができません。

 「13年前の記憶」は決して触れることはできない。過ぎ去った事実を変えることはできない。

 でも、それに対する理解、解釈、アプローチなど、そういうものを変えることはできます。

 『空青』では、「実在しないもの」である「13年前との記憶」とのコミュニケーションが描かれています。

 人間は「実在しないものの気配を察知できる」生物です、と先ほど申し上げましたが、そんな能力があったとして、さらに一歩進んで申し上げると、人間の中でも「実在しないもの」とコミュニケーションする能力を持つのは「大人」だけです。

 「実在しないもの」とのコミュニケーションとは「実在するもの」と「実在しないもの」との間に明確に線を引く行為です。

 線をうまく引くことは「実在しないもの」と「お別れ」をすることと言い換えることができます。自分の中でもやもやしている「13年前の気持ち」と向き合い、「今の気持ち」と折り合いをつけること。

 慎之介は、閉じ込めることでしか前に進めなかった自分の過去と向き合いました。

 あのときの想いを、後悔で固定しないために。

 あおいは、好きな人の想いを応援できなかった後悔を固定しないために、ちゃんと「しんの」と向き合って答えを出しました。

 ついでに付け加えるなら、物語の後半においてあかねの愛をちゃんと受け止められるようになったのは、あおいが「大人」になった証左です。

 過去の記憶とちゃんと向き合って「お別れ」すること。

 適切に「お別れ」ができることは、人間が大人であるため、かつよりよい未来へ向けた生き方を選択するためには不可欠なスキルだと私は思います。

 製作スタッフが『空青』と共通する『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』においても『心が叫びたがってるんだ。』においても「お別れ」と「大人になること」はセットで語られています(『あの花』ではヒロインとの「お別れ」、『ここさけ』では「王子様」との「お別れ」によって「大人になること」が表現されたと私は認識しています)。

 クライマックスであおいが見た空の青さは、人生の節目において適切に「お別れ」をしていくことができる「空の青さを知る大人」になったことの祝福の景色なのかも知れないと思いました。

 「井の中の蛙」は井戸の中にいるこそすれ、オタマジャクシではない立派なカエル=大人なのです。

(1525字、原稿用紙4枚と9行)

参考:内田樹の研究室「穢れと葬礼」