目次
あらすじ
アメリカ人のメイは15歳。
4歳まで日本で過ごした過去を持つ。
夏休みに特にすることもないので先輩から誘われて「公開討論会」に出ることにした。
討論会のテーマは「戦争と平和」。
題材は「広島と長崎の原爆投下は良かったのか悪かったのか」。
登場人物たちの討論を通じて歴史を考える小説。
「一冊の本には人を動かす力があり、人を変える力もある」
読書感想文(2000字、原稿用紙5枚)
マンガ『ドラゴンボール』において強敵・セルは自分が「負けそうだ」とわかったとたん自らの身体を爆弾に変えます。地球をすべて破壊しつくす程度の爆弾です。それに対し主人公・悟空はセルを連れて地球から遠い星に瞬間移動します。地球は爆発による滅亡をのがれました。
私はこのシーンを読んだとき「地球で爆発しなくて良かった」と思いました。でも、結局は地球で爆発しなくても別の星で爆発してしまったわけで、悟空を含め爆発が起きた星の住民は地球上の生命の代わりに全員あの世に旅立ってしまいました。
悟空がセルを連れてワープしたとき、周りの仲間は「これで戦いは終わった」と感じましたが、セルは爆発しながらもしぶとく生き残り地球に戻ってきます。「最後の戦い」が始まりました。
日本における原爆も、ある晴れた夏の朝に爆発したことをきっかけとして太平洋戦争を終わりへ導きました。『ドラゴンボール』と違う点は日本本土において「最後の戦い」は起きず、無条件降伏したことです。
『ある晴れた夏の朝』では原爆投下について「戦争を終わらせるために必要な正しい行いだった」という意見が挙げられています。
政治的な状況や戦争の行方などを資料を集めてクールに分析すれば「原爆の正しさ」を証明することは不可能ではないかもしれません。
でも証拠を重ねて導き出した結論が「正しいかどうか」は理論とか論理、言葉の組み合わせだけで毎回判定してはいけないと私は思います。特に生死が関わる問題は。
波の青さを「君の涙で満たしたバケツをぶちまけたみたいだ」と歌ったロックバンドがいますが、原爆は夏の青い空を悲しみでぬりつぶしました。
「原爆を落としたのは政治的に正しい判断だった」と理路整然と結論できる人は、「落とされた結果の悲しみ」と「落とされなかった場合の悲しみ」を天秤にかけて皿が持ち上がった方の悲しみを「正しい」と言っています。
もしも同じケースが目の前に突き付けられたとき、同じように天秤にかけ「これは日本に原爆を落としたときと同じ状況だ。今回も落とすのが正しい」と判断を下すのでしょうか。
同じ悲しみは繰り返すべきではないと私は思います。できれば原爆でもう誰も悲しまないでほしい。
「あれは正しかった」と思いながら生きることは「あれはまちがいだった」と思いながら生きることよりもたぶん精神のエネルギーを使わずにいられるし、むしろ逆にエネルギーになります。
朝起きて身体がだるいな、と思った後に原因はきのう月曜日にも関わらずよふかしをしたことだと気づいたとき、「でも、月曜からよふかしってワクワクしたよね」と肯定的にとらえると「よし、今日もがんばろう」という気持ちになることができます。
朝起きて身体がだるいな、と思った後に原因はきのう月曜日にも関わらずよふかしをしたことだと気づいたとき、「うわ、月曜からやってしまった……」とミスをしたととらえると「うう、一週間のりきれるかな……」という気持ちになります。
原爆投下について「あれは正しかった。私たちは世界の被害を最小限に抑えたのだ」という気持ちでいると、その後暴力的なことが起こる可能性が高くなったとしても、特に注意もせず「起きた後でも、それを上回る暴力を使えば解決するから今は別にいい」と問題を先送りにするかもしれません。
原爆投下について「あれはまちがいだった。私たちはたくさんの命をうばった」というとらえかたでいると、「これからは暴力的なことが起こらないようにしよう」と事前に暴力を防ぐことができるように注意深く外交を行うようになるかもしれません。
悲しい出来事があったとき私たちがとるべき態度は「あれは必要なことだった」とか「あれはどうしても必要な犠牲だった」とか肯定的な立場をとることではなく「もう二度と悲しみを繰り返さない」という決意や「悲しみを避けるために私たちはどういう行動をとるべきか」という予防策の検討だと私は思います。
この世界にはドラゴンボールもセルも悟空も存在しませんが、原子爆弾は大量に存在します。原子爆弾を二度と使わないために大切なのは「戦争を終結させるために最善の選択だった」という態度よりも「あれはまちがいだった」と全面的な反省を胸に抱きながら生きる「決意ある後悔」だと私は思います。
(1762字、原稿用紙4枚と17行)
おわりに
そのほかの「読書感想文」はこちらから。