太宰治『トカトントン』読書感想文|パブロフの犬

※引用はすべて太宰治『斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 外七篇』文春文庫 による

目次

あらすじ

 <拝啓。一つだけ教えて下さい。困っているのです。>
 「私」は「某作家」に手紙を出す。
 何かをしようとすると「トカトントン」という音が聴こえてくるのだという。
 その音がすると、たちまちやる気がなくなってしまう。
 某作家はイエスの言葉を引用したアドバイスを返した。

 

「トカトントン」とは?―解釈

 「私」は「トカトントン」の音を聴くたび、行動にブレーキをかけてしまいます。
 最初にその音がしたのは終戦のときです。なのでそれは「戦争が彼に残した爪あと」のように思われます。

 

 しかし『トカトントン』最後の「某作家」のアドバイスを読むと、また違った解釈ができると思います。
 そこには「僕はあまり同情してはいないんですよ」「真の思想は叡智よりも勇気を必要とするものです」とあります。

 

 私はこれを読んで、「トカトントン」とは「私」がつくりだした「なにかをやらないための言い訳」だと考えました。
 「私」のそんな気持ちを見抜いていたので「某作家」は彼に「同情してはいないんですよ」と返事を書いたのだと私は思います。

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【読書感想文】原稿用紙5枚(2000字,100行)

KKc
「トカトントンとパブロフの犬」

 

 <拝啓。一つだけ教えて下さい。困っているのです。>
 『トカトントン』はこんな一文から始まります。

 

 「私」は何かをするたびに聴こえてくる「トカトントン」という音に悩まされています。それが何なのかわからない。そこで「某作家」に手紙を出し、その正体を教えてもらおうとします。
 私が思うに「トカトントン」の音は彼が自分自身で創りだした「言い訳」です。自分が傷つかないための「逃げ道」だと思いました。

 

 最初のトカトントンは軍隊にいた彼が、終戦の知らせを受けたときに鳴ります。正確には戦争が終わり、悲しみのあまり自殺を考えたときです。
 二回目のトカトントンは「私」の「精神的」な生活を殺します。
 三回目のトカトントンは「私」の「労働は神聖なり」の気持ちをうち砕きます。
 四回目のトカトントンは「私」の恋心を消し去りました。
 五回目のトカトントンで「私」は、社会や政治に対する興味をなくしてしまいました。

 

 「トカトントン」が何を表しているかを考える上で大切なのは、最初のトカトントンだと私は思います。
 最初のトカトントン。それは彼が戦争という悲しいことから開放されたときの「喜びの祝砲」ですが、同時に自殺を思いとどまった「中止の合図」でもあります。

 

 ベルが鳴ったときにエサが出てくる装置の前に犬を置いておくと、それが鳴った瞬間に犬は唾液を出すようになります。それはまったく無意識の反応で、これを発見した学者の名前にあやかって「パブロフの犬」と呼ばれています。

 

 『トカトントン』の主人公はこの「パブロフの犬」と同じだと私は思いました。

 

 自殺を思いとどまったとき、トカトントンの音とともに彼は「なにもしなくていいんだ」という「逃げ」の姿勢になることを「学習」してしまいました。終戦という「喜ばしいこと」と時間的にほとんど一緒であったことも原因のひとつです。

 

 「終戦」、「自殺の中止」という「エサ」が「トカトントン」という「ベル」とともに訪れるのだという経験を覚えてしまったのです。その入力に対して「私」は「唾液」の代わりに「虚無」という出力をします。

 

 無意識のレベルの内に「トカトントンが聴こえたら、それまでの行動・考えていたことをやめること」という回路が組み込まれてしまったのです。私の『トカトントン』の解釈はこんな感じです。

 

 また、『トカトントン』では最後に「某作家」が「私」に出した返事を読むことができます。そこにはこう書かれています。
 <真の思想は叡智よりも勇気を必要とするものです。>

 

 「某作家」はきっと「私」に「言い訳なんかしてないで、いいから最後までやってみなさいよ」と言いたかったのだと思います。それは「パブロフの犬」状態から「がんばって抜け出しなさいよ」とアドバイスしているのだと思いました。

 

 よく「物事ははじめと終わりが肝心だ」と言います。『トカトントン』の主人公は何かを思い立つことはできるのですが、何かをやり遂げることはできません。

 

 ちなみに「私」はマラソンで走る人たちを見て「ラストヘビー」の大切さを知っています。「ラストヘビー」とは「最後のがんばり」のことです。「ラストスパート」と言われたりもします。
 彼は何かをあきらめる理由を「トカトントンが聴こえたからだ」と説明していますが、ただ単に「ラストヘビーがしんどいから、やりたくないです」と言っているようにしか私には見えません。

 

 たぶん「某作家」もそれを見抜いていて、イエスの言葉を引用した返事を書いたのだと思います。
 はたして「私」がそれに気づけるのか、どうか。

 

 「私」すでに、何かをやり終える寸前ではなく、何かを始めようとするときにもトカトントンが聴こえるようになっています。
 <自殺を考え、トカトントン。>

 

 でも、トカトントンが頭に鳴り響きながらも手紙を書き終えることができたということは、彼の中にまだ「パブロフの犬」に対抗する力が残っていることも示しています。希望はゼロではありません。
 「私」に霹靂の感情があらんことを。

 (95行,原稿用紙4枚と15行)

おわりに

KKc
お読みいただきありがとうございました。

 

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