目次
あらすじ
山の手線の電車に跳ね飛ばされた「自分」は静養のために城崎温泉で過ごす。
そこでハチやネズミ、アヒルや桑の木、トカゲなどを見て「生き物」について考える。
電車にぶつかって死ななかった自分は生きていることに感謝しなければならないと思った。
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【読書感想文】原稿用紙3枚(1200字,60行)
『城の崎で』は書き出しがショッキングです。
「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。」です。
また、角川文庫の『城の崎にて・小僧の神様』の裏表紙に「作者自身の経験をもとに綴られた『城の崎にて』」とあります。
私はこのふたつを読んで「自分」つまり作者の志賀直哉はなんて丈夫な人なんだ、と思いました。たぶん私が電車にぶつかったのなら、きっと「怪我をした」程度では済まないでしょう。
というか私は、その志賀直哉が電車事故にあったほうの話を小説にしたほうがよいのではと思いました。そうしたら同じく主人公が最後に電車に跳ね飛ばされる太宰治の『ダス・ゲマイネ』のように、面白い小説が書けたのではと思います。
いや、志賀直哉の『城の崎にて』は面白くない小説だと言っているわけではありません。私はこれが「小説」であるとは思えないだけです。
私の印象では『城の崎にて』はエッセイに近いものであると思います。生き物にエピソードのあとには必ず「まとめ」のようなものが書いてあるのでそう思いました。
「自分」が見つけたトカゲが死んでしまったことに対して志賀はこう書いています。
「死ななかった自分はこうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。」
城崎温泉で「自分」はさまざまな生きものの「生」に触れます。その気になれば日常のどこからでも、生と死は見つけられます。
志賀が「感謝しなければ済まぬような気がした」と言っているのは、そのような気持ちが自然に起こってこなかったからです。「いつでも死んでしまう可能性はある。だから生きていることに感謝しよう」と思えなかった理由を次のように説明しています。
「生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。」
両極というのはたとえば北極と南極のように、端と端、まったく反対のことを指します。そうではなくて志賀は、生と死はとても近いものだと思っています。
ここで彼の気持ちは夜の訪れとともに暗くなり、文章も終わりました。
志賀直哉は交通事故にあったことで生きることに感謝をするようになったのではなく、かえって死の近さを感じるようになりました。私は電車にひかれることなくその考えを知ることが出来たので、とてもよい読書の経験になりました。
(56行,原稿用紙2枚と16行)
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おわりに
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