伊原柊人『隣人の死体は、何曜日に捨てればいいですか?』|「みんな」で悩まねばならない質問

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あらすじ

 <「そういえば、昨夜のニュース、聞きましたか? どうやら、例の法律、ついに施行されてしまったらしいですね」>
 次々と発生する凶悪事件に対し、日本政府は「五人組」の法律を定めた。
 「五人組」とは、罪を犯した人の近隣住民も、罰を受ける法律である。
 五人組の班長に命ぜられた男の隣に住む老人が殺された。殺したのは同じ五人組のメンバーだった。このままでは組員全員が殺人罪に問われてしまうが……。

感想

 「連帯責任」とは恐ろしい概念だ。
 ふつう私たちが行動するときには、よほど頭に血が上っているときでなければ、その行動がもたらすリスクとベネフィットを天秤にかける。その皿の下がり具合を確認してから、行動は実行に移されると思う。たぶん。

 前提となっているのは、「自分の責任は自分で負う」ということです。テスト前に遊んでしまい、点数が芳しくなかったのは、自分のせい。遊びに行く前日にもかかわらず深夜までついつい飲んでしまい次の日寝坊してしまったのは、自分のせい。

 私たちはそのような「過ち」をしてしまいそうな人に対して、あまり強く「やめなよ。これからのことも考えてさ」とは言うことができません。だって、「自己責任」ですから。彼らに「いいじゃん。オレの勝手だし」などと言われただけで、私たちは口を閉じる他にすべきことはなくなります。

 ところが「五人組」はその「口を閉じる」ことを禁止する法律です。誰かが何かよくない行いをしそうになったら、それを構成員が全力で止めにかかる制度と言いかえることもできます。

 自分の責任は自分が負う。そして皆も等しくその責任を負うとしたら、「善人」は必要以上に自らの行動に鎖をかけるでしょう。

 自分の責任は自分が負う。そして皆も等しくその責任を負うとしたら、「悪人」は自分の犯した過ちに、堂々と他人を巻き込むことになるでしょう。

 事実、『隣人の死体は、何曜日に捨てればいいですか?』では、殺人犯が、五人組の他のメンバーに対して死体隠蔽の協力を強いています。

 「五人組」のもとでは善人の行動が制限され、悪人の行動が助長されていく。本作品で描かれているのは、そのような居心地の悪い未来です。

 ルールの変化によって、人間の行動はかくも変わる。私たちが制度設計をする際重視しなければならないことは、「そのシステムによってどんないいことが起きるか」ではなく「そのシステムによってどんな悪いことが起きるか」であり、その「悪いこと」をいかにして最小化するか、だと私は思います。

おわりに

KKc
お読みいただきありがとうございました。

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コメント

  1. けy より:

    KKcさんの文を読んでいると、本が好きなんだなぁと思えてきて何だか私も読みたくなってきます。
    有言実行という言葉もありますし、この衝動に身を任せて、忌避してきた作品に手を出してみようかと思いました。

    ドストエフスキーの「カマラーゾフ兄弟」、プルーストの「失われた時を求めて」。

  2. けy より:

    あれ?「失われた時を求めて」って光文社新古典版は刊行途中なのですか。……ヤバイっす。

    • KKc より:

      刊行途中でしたか(笑)
      では『カラマーゾフの兄弟』からですね。私も久しぶりに読もうかな……
      どの人物も魅力的で、長さのわりにどんどん読み進められるんですよね。