又吉直樹『火花』感想|スパークスと花火

※引用はすべて文學界2015年2月号による

あらすじ

 漫才コンビ「スパークス」の徳永は熱海の花火大会で「あほんだら」神谷才蔵と出会い「弟子にしてください」と頭を下げる。
 神谷は徳永に「俺の伝記を書け」と言い、ふたりはよく行動を共にするようになる。
 徳永は神谷の元で学ぶが、芸人としての仕事は増えず、生活は苦しくなるなるばかり。
 才能あふれた一年目のピン芸人・鹿谷の活躍や、神谷の女性との別れ、「スパークス」の解散……。
 物語は再度、熱海の花火大会で幕を閉じる。徳永も神谷も、生まれながらの「漫才師」であることを感じた。
 『火花』は現実と理想のはざまで葛藤・奮闘する二人の生きざまを描いた青春小説である。

 

冒頭の文章

 

<大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。>
(10頁)

 

名言

 

「新渡戸稲造が何者か知ってるか?」
(15頁)

 

「漫才師である以上、面白い漫才をすることが絶対的な使命であることは当然であって、あらゆる日常の行動はすべて漫才のためにあんねん。だから、お前の行動のすべては既に漫才の一部やねん。漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。つまりは賢い人には出来ひんくて、本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」
(16頁)

 

「龍よ目覚めよ!太鼓の音で!」
(23頁)

 

もし、俺が人の作ったものの悪口ばっかり言い出したら、俺を殺してくれ。
(25頁)

 

「俺たちがやってきた百本近い漫才を鹿谷は生れた瞬間に越えてたんかもな」
(58頁)

 

「十年間、ありがとう」
(67頁)

 

臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい。リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。
(71頁)

 

「火花」タイトルの意味

 

 主人公・徳永の漫才コンビ名が「スパークス」。和訳するとそのまま「火花」。

 さらに物語の始まりも終わりも花火大会=逆に読むと火花である。

 

読書感想文(原稿用紙3枚,1200字以内)

KKc
伝えるときに大事なことは

 

 主人公・徳永は相方・山下と「スパークス」という漫才コンビを組んでいます。
 私はこの山下が(いいやつだな)と思いました。

 

 山下は、徳永が持ってきたネタに文句を言ったり、漫才以外を重視する態度をとったりするのですが、そのことに関して、後になってちゃんと謝ります。

 

 「三つ謝るわ」 山下は前置きをして、謝罪の言葉を述べます。
 「漫才がいちばん大事じゃないような発言をしてごめん」、「お前がネタを作ってきてくれてるのに偉そうにしてごめん」、そして「三つ目は……」

 

 ここで山下は突然言葉に詰まります。私はここで笑ってしまいました。

 

 その理由を、山下はこういうことがある、と徳永は語ります。彼はいつも、前置きをした時点では三つ言いたいことがあっても、話しているうちに最後の言葉を、つまり三つ目に何を言いたかったのかを忘れてしまうことがある、といいます。また、ほんとうは二つしか言いたいことがないのに「三つだ」と言ってしまうこともあるそうです。

 

 きっと山下は「謝りたい」という気持ちと「ちゃんと徳永に伝えたい」という気持ちのバランスをとるのが苦手なのだと、私は思いました。山下はたぶん「謝りたい」気持ちの方が先に立ってしまって、このような状況になるのです。だからこの場面のように、(何を言うんだったっけ)となるのです。

 

 でも私はそんな山下がいいな、と思いました。
 誰かに何かを伝えるときというのは、たぶん表面上の言葉よりも、その裏に流れる気持ちのほうが大切だと思います。火花が散るのは、その源に大きな炎があるからです。伝えたい気持ちが大きければ大きいほど、その気持ちが美しければ美しいほど、それをできるだけそのまま、伝えようとするだけで、きっと火花は鮮やかに舞うのだろうと私は思いました。
 私が山下のことをいいな、と思ったのはこういう理由だと思いました。

(45行,原稿用紙2枚と5行)

 

おわりに

KKc
お読みいただきありがとうございました。

 

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