太宰治『桜桃』【読書感想文】あらすじ付―子どもより親が大事、と

スポンサードリンク

スポンサーリンク

太宰治『桜桃』あらすじ

 子育ての疲れからケンカをした夫婦。

 夫は外へ出て居酒屋へ向かう。

 そこで桜桃を食べ「子供よりも親が大事」と呟く。

【読書感想文】原稿用紙3枚(1200字,60行)

KKc
「太宰治の執筆の苦しみがよくわかる小説」

 『桜桃』は文中で「この小説、夫婦喧嘩の小説なのである」と書かれているように、妻と夫がケンカをし、夫が家を出る小説です。タイトルが「桜桃」とつけられていますが、甘い物語ではありません。『桜桃』最後の場面で「私」は出された桜桃を「極めてまずそうに」食べます。ここを読んで『桜桃』は苦しさ、それも作者・太宰治の、小説家としての苦しさを描いた小説だな、と私は思いました。

 まず冒頭に「われ、山にむかいて、目を挙ぐ」とあります。これは『詩篇 第百二十一』の引用で、原典はこの後「わが助けはいづこよりきたるや」と続きます。『桜桃』にはこの後半部分が書かれていません。太宰治はなぜ前半のみを引用したのでしょうか。

 私が思うにあえて前半だけを書き置くことで、その後の文章を創造しやすくしたのではないか、と私は思います。
 ブランコに乗るときいったん後ろに下がるように、小説を書くのに弾みをつけようとしたんじゃないかなと思いました。

 そして引用に続く書き出しは「子供より親が大事、と思いたい」です。
 五七五調になっており、響きがとてもよいです。たぶん太宰治はこの一文を書いて、けっこう満足したんじゃないかと私は思います。私ならこんな、思わず声に出したくなるような文章を書いてしまったら「自分はよく頑張ったな」と思って筆を置いてしまうと思います。
 実際、全体の半分を過ぎるまで太宰治はだらだらと自分のことだとか、新聞記事だとか、家庭の状況だとかを書き連ねています。

 長々と筆を進めてきて「そろそろまとめなきゃな」と思いはじめ、「はっきり言おう。くどくどと、あちこち持ってまわった書き方をしたが、実はこの小説、夫婦喧嘩の小説なのである」と書いたときに太宰治は「まとめられる」と確信し、物語のラストに向け思考をまとめていったのだと私は思います。

 きっと『桜桃』を書き上げた太宰治の気持ちは、「私」が桜桃を食べたときの気持ちと重なっていたと思います。

 「小説を書こう」と思って筆をとってみても、なかなか上手く書くことができない。「まずい」小説しか自分には書くことができないと思い始める。
 「家庭をうまくやろう」と思っても、さまざまな災難が降りかかり、順調に行かない。たまには全てを投げ出して「うまそうな」桜桃を食べるが、それは「まずい」。「まずい」桜桃しか自分は食べることができないのではないか、という不安が残る。

 でも現実の太宰治は『桜桃』を完成させました。とてもおもしろい小説です。
 それが太宰治にとってまずい『桜桃』であったとしても、私は「私」の子どもたちのように『桜桃』を喜んで読みました。よい読書でした。

 (60行,原稿用紙3枚ぴったり)

スポンサードリンク

【読書感想文】原稿用紙5枚(2000字,100行)

KKc
「太宰治の執筆の苦しみがよくわかる小説」

 『桜桃』は文中で「この小説、夫婦喧嘩の小説なのである」と書かれているように、妻と夫がケンカをし、夫が家を出る小説です。

  タイトルが「桜桃」とつけられていますが、甘い物語ではありません。

 『桜桃』最後の場面で「私」は出された桜桃を「極めてまずそうに」食べます。
 ここを読んで『桜桃』は苦しさ、それも作者・太宰治の、小説家としての苦しさを描いた小説だな、と私は思いました。

 まず冒頭に「われ、山にむかいて、目を挙ぐ」とあります。これは『詩篇 第百二十一』の引用で、原典はこの後「わが助けはいづこよりきたるや」と続きます。『桜桃』にはこの後半部分が書かれていません。

 太宰治はなぜ前半のみを引用したのでしょうか。
 私が思うに彼は、そこまで記してしまうと『桜桃』を書き始めることができないと直感したのではないでしょうか。
 あえて前半だけを書き置くことで、その後の文章を創造しやすくしたのではないか、と私は思います。
 ブランコに乗るときいったん後ろに下がるように、小説を書くのに弾みをつけようとしたんじゃないかなと思いました。

 また「わが助けはいづこよりきたるや」を無視して「われ、山にむかいて、目を挙ぐ」という文章だけに注目すると、自分自身は山を見上げる位置に立っていることと、どこかからの助けを期待していないこと、が読みとれると思います。

 「私」は山を見上げる位置に立っていて、それはどこかというと「涙の谷」です。「私」の妻が言った場所です。
 「私」はそこにいて、誰の助けも頼らない心づもりでした。「私」はイコール太宰治と言ってもよいでしょう。
 つまり太宰治は「涙の谷」というキーワードから出発して、自分の力だけで小説を書ききるのだと決意したのだと私は思います。
 それが『詩篇 第百二十一』を半分だけ引用した理由だと思いました。

 そして引用に続く書き出しは「子供より親が大事、と思いたい」です。
 五七五調になっており、響きがとてもよいです。たぶん太宰治はこの一文を書いて、けっこう満足したんじゃないかと私は思います。

 私ならこんな、思わず声に出したくなるような文章を書いてしまったら「自分はよく頑張ったな」と思って筆を置いてしまうと思います。
 実際、全体の半分を過ぎるまで太宰治はだらだらと自分のことだとか、新聞記事だとか、家庭の状況だとかを書き連ねています。

 長々と筆を進めてきて「そろそろまとめなきゃな」と思いはじめ、たぶん「涙の谷を使えばまとめられそう」と考え、「はっきり言おう。くどくどと、あちこち持ってまわった書き方をしたが、実はこの小説、夫婦喧嘩の小説なのである」と書いたときに太宰治は「まとめられる」と確信し、物語のラストに向け思考をまとめていったのだと私は思います。

 きっと『桜桃』を書き上げた太宰治の気持ちは、「私」が桜桃を食べたときの気持ちと重なっていたと思います。

 「小説を書こう」と思って筆をとってみても、なかなか上手く書くことができない。「まずい」小説しか自分には書くことができないと思い始める。
 「家庭をうまくやろう」と思っても、さまざまな災難が降りかかり、順調に行かない。たまには全てを投げ出して「うまそうな」桜桃を食べるが、それは「まずい」。「まずい」桜桃しか自分は食べることができないのではないか、という不安が残る。

 でも現実の太宰治は『桜桃』を完成させました。とてもおもしろい小説です。
 それが太宰治にとってまずい『桜桃』であったとしても、私は「私」の子どもたちのように『桜桃』を喜んで読みました。よい読書でした。

 (84行,原稿用紙4枚と4行)

スポンサードリンク

関連リンク

Twitterやってます。

想像力を働かせたり。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク