芥川龍之介『杜子春』【読書感想文】あらすじ付―愛は金で買えない

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芥川龍之介『杜子春』あらすじ

 杜子春は金持ちの息子だったが、財産を使い果たして途方に暮れていた。
 そこへ老人がやってきて彼を大金持ちにする。

 だが杜子春はそれをまたたく間に使い果たしてしまう。
 杜子春は老人に三回目に出会ったとき、仙術を教えてくれと頼む。
 老人は仙人だったのだ。

 そこで老人は杜子春をある岩山の上に残し「何が現れても一切口をきくな」といって去る。
 その後杜子春は魔物に殺され地獄に落ちる。言葉は発しなかった。
 しかし両親に会って叫んでしまう。

 その瞬間、杜子春は目を覚ます。
 岩の上に連れてこられてからの出来事はすべて夢だった。
 杜子春は仙人にはならず、これからは人間らしい、正直な暮らしをすると宣言した。

【読書感想文】原稿用紙3枚(1200字,60行)

KKc
 「人間は人間らしく」

 『杜子春』は起承転結がはっきりしている小説だな、と思いました。

 「起」は杜子春が金持ちになるが、使い果たして一文無しになることを二度繰り返すまで。
 「承」は杜子春が岩山でさまざまな「試練」を受けるところ。
 「転」では杜子春が命を落とし地獄へ送られます。そこで彼は両親と再会します。
 「結」で杜子春は仙人にはならず、「人間らしい、正直な暮らしをする」ことを決心します。

 私は、この起承転結の変わり目は杜子春の気持ちの変化とぴったり一致していると思いました。

 杜子春ははじめ、人間は金持ちの方がよいと思っています。老人に「黄金が埋まっているから」と言われて素直に地面を掘ります。しかし、手に入れたお金を使い尽くして、杜子春は一文無しに戻ります。

 私はここでふつうは「次はまじめにこつこつ働こう」とか「お金が手に入ったら確実に使おう」とか考えると思いました。でも杜子春はそう考えませんでした。

 杜子春は「恐る恐る」また同じことを繰り返します。せっかく手に入れたたくさんのお金を、またムダに使ってなくします。私はバカだなあと思いました。

 そして杜子春は老人と洛陽の西の門の下で出会います。三度目です。
 私は杜子春は「もうムダ使いはしませんから、どうかチャンスをください」か「お金は自分で働いて稼ぐのでけっこうです」と言うと思っていました。

 ところがそこで杜子春は「お金はもういらないのです」と発言します。杜子春は金持ちであることに嫌気が差したのだけではなく、「人間というもの」が嫌になったというのです。お金を持つことも嫌だし、お金にとらわれることも嫌だと思ったのでしょう。

 だから「仙人にしてください」とお願いして老人の試練を受けました。でも最後に杜子春は、その考えも改めます。

 杜子春は自分は仙人には「なれません」と言い、そして仙人になれなくても「かえって嬉しい気がするのです」とも言いました。その理由は地獄で見た両親の態度です。

 杜子春の両親は自分がどんなにひどい仕打ちをされても、息子の幸せを思ってそれに耐え続けました。そんな姿に杜子春はきっと「人間らしさ」を感じたのだと思います。

 だから自分も両親のように「人間らしい、正直な暮らし」をすることを決心したのだと私は思いました。

 「人間らしく」とは家族や思いやりの気持ちを大事にして、毎日ていねいに暮らしていくことだと思いました。それは村上春樹の小説にもよく書かれているような「アイロンがけや食事や掃除を大切にする」ように生きていくことだと私は思います。

 (60行,原稿用紙3枚ちょうど)

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【読書感想文】原稿用紙5枚(2000字,100行)

KKc
「仙人は仙人らしく、人間は人間らしく」

 読み終えて『杜子春』は起承転結がはっきりしている小説だな、と思いました。

 「起」は杜子春が金持ちになるが、使い果たして一文無しになることを二度繰り返すまで。
 「承」は杜子春が岩山でさまざまな「試練」を受けるところ。
 「転」では杜子春が命を落とし地獄へ送られます。そこで彼は両親と再会します。
 「結」で杜子春は仙人にはならず、「人間らしい、正直な暮らしをする」ことを決心します。

 私は、この起承転結の変わり目は杜子春の気持ちの変化とぴったり一致していると思いました。

 この小説の中で杜子春は「人間」と「金持ち」と「仙人」のどれが一番よいと思っているかがはっきりしています。最終的には「人間」として生きることを選びますが、そこにたどりつくまで彼は色々な経験をします。

 杜子春ははじめ、人間は金持ちの方がよいと思っています。金持ちの息子として生まれたので、そう考えることは自然です。
 老人に「黄金が埋まっているから」と言われて素直に地面を掘ります。そして黄金の山を手に入れました。

 しかし、手に入れたお金を使い尽くして、杜子春は一文無しに戻ります。
 私はここでふつうは「次はまじめにこつこつ働こう」とか「お金が手に入ったら確実に使おう」とか考えると思いました。

 でも杜子春はそう考えませんでした。
 杜子春は「恐る恐る」また老人に頼り、同じことを繰り返します。せっかく手に入れたたくさんのお金を、またムダに使ってなくします。

 私は「バカだなあ。でも、これで杜子春もわかったでしょう。これからはしっかり働こうね」と思いました。

 そして杜子春は老人と洛陽の西の門の下で出会います。三度目です。
 私は杜子春は「もうムダ使いはしませんから、どうかチャンスをください」か「お金は自分で働いて稼ぐのでけっこうです」と言うと思っていました。

 ところがそこで杜子春は「お金はもういらないのです」と発言します。
 私は驚きました。

 彼はその理由を「人間というものに愛想が尽きた」からだと説明しました。
 杜子春は金持ちであることに嫌気が差したのだけではなく、「人間というもの」が嫌になったというのです。

 お金を持つことも嫌だし、お金にとらわれることも嫌だと思ったのでしょう。
 この時点で杜子春は「仙人」が「人間」よりもすばらしい存在に見えていたのだと思います。
 だから「仙人にしてください」とお願いして老人の試練を受けました。

 でも最後に杜子春は、その考えも改めます。
 『杜子春』では場面が変わると気持ちも変わります。

 杜子春は自分は仙人には「なれません」と言い、そして仙人になれなくても「かえって嬉しい気がするのです」とも言いました。

 その理由は地獄で見た両親の態度です。
 杜子春の両親は自分がどんなにひどい仕打ちをされても、息子の幸せを思ってそれに耐え続けました。

 そんな姿に杜子春はきっと「人間らしさ」を感じたのだと思います。
 だから自分も両親のように「人間らしい、正直な暮らし」をすることを決心したのだと私は思いました。

 ちなみに仙人は、はじめからそのことを見抜いていて、わざと杜子春に試練を与えたと思います。

 杜子春は人間らしくない、親を見捨てるような生き方はできない、とわかっていたのだと思います。
 その証拠に杜子春が「人間らしく」生きる決意を固めたときに、嬉しそうに下界にある自分の家をプレゼントしています。

 老人は「仙人は仙人らしく生きるべきだし、人間は人間らしく生きるべきだ」と考えていたのだと私は思います。

 「仙人らしく」とはきっと何ごとにも動じない心で、世の中を渡っていくことだと思いました。
 「人間らしく」とは家族や思いやりの気持ちを大事にして、毎日ていねいに暮らしていくことだと思いました。

 それは村上春樹の小説にもよく書かれているような「アイロンがけや食事や掃除を大切にする」ように生きていくことだと私は思います。

 (97行,原稿用紙4枚と17行)

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我ながらむちゃくちゃな理屈だ。

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