住野よる『君の膵臓をたべたい』読書感想文

簡単なあらすじ

 「僕」は偶然ある文庫本を拾う。それは膵臓の病であと一年しか生きられない少女・桜良の日記帳だった。
 秘密を共有した彼らはそれから「死ぬまで」仲良くすることになった。

 

読書感想文

原稿用紙5枚(2000字,100行)その1

KKc
「選んでくれてありがとう」

 

 <「違うよ。偶然じゃない。私達は、皆、自分で選んでここに来たの。君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。私達は、自分の意思で出会ったんだよ」>

 

 人生に偶然はない。すべてその人の選択の結果である。桜良はそのような考えを持っています。それは「僕」が「春を選んで咲く桜という花の名前は、人生を偶然じゃなく選択だと考えている君の名前にぴったりだ」と指摘するように、「桜良」という名前と密接にリンクしています(このセリフは「春を選んで」というところが「僕」の名前である「春樹」とも関係していますけど、それはまた別の話)。

 

 この桜良の人生観はそのまま受け取ることもできますけど、私は別の意味も含まれているのでは、と思いました。それは「この本を読むことを選んでくれてありがとう」です。

 

 読書をしていて「この本はすごい。読んでよかった。まさに、私のために書かれたものだ」と思う本に出会う機会はまあまああります。それがよいことかよくないことかはいったん置いておいて、そういう気持ちはたいがい、読者の片想いです。だって常識的に考えて、私ひとりのためだけに書かれた本は、きっと存在しないからです。本に対する思いは、たいてい一方通行です。

 

 でも、まれにそんな読者の思い込みと呼応するように、本の側からも「読んでくれてありがとう」というメッセージを発信している本があります(ほんとうに珍しいですけど)。

 

 この『君の膵臓をたべたい』という小説はそんな「珍しい本」です。「よく選んでくれたね。ありがとう」のメッセージを読者に向けて掲げてくれている、とてもレアな本です。私はそう感じました。

 

 私の今までの読書経験を顧みると、小説のほうからメッセージを発してくる作品を書ける作家は、太宰治とサン=テグジュペリしか知りません。たとえば太宰治は『桜桃』の出だしでこう書いています。

 

 <子供より、親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。>

 

 第二文の「何」というところが、まさに読者を意識した言葉です。「だよね? 子供より親が弱いって、君も思ってるよね、きっと」という作者の気持ちがとても伝わってきます。

 

 また、サン=テグジュペリは『星の王子さま』の冒頭で「いかに大人たちは話がわからないやつらか」ということを述べています。

 

 <大人というのは何もわかっていないから、子供の方はいつも説明しなければならなくてうんざりしてしまう>

 

 作者がどうしてそんなことを書いたのかというと、「君たちはそんな”いやな大人”じゃなくて、僕の気持ちをわかってくれる”子ども”だよね?」というメッセージを伝えるためです。

 

 太宰治とサン=テグジュペリは私が知っている中でこのような「読者に対して語りかけてくれる作品」を書くことのできる特別な才能を持った作家です。そしてそれは偶然にも、『君の膵臓をたべたい』の作中で名前が出てきた作家のうちのふたりです。

 

 <「ふーん。一番好きな小説家は名前と一緒?」「違う。一番は、太宰治」>
 <「『星の王子さま』、知ってる?」「サン・テグジュペリ?」>

 

 「人生に偶然なんてない」という桜良の言葉を借りると、小説の中に彼らの名前が出てきたのは偶然ではないと考えるべきでしょう。「あなたが今読んでいるこの『君の膵臓をたべたい』という小説も、太宰治やサン=テグジュペリの本のように、あなたに語りかけていますよ」というメッセージです。それは「メッセージを発していることを伝えるためのメッセージ」です。「これからあなたに語りかけるから、聴き逃さないでね。いい?」というメッセージです。

 

 その直後に、桜良は上に記したような「人生に選択はない」というようなことを言います。それは「だから、この本を選んでくれてありがとう」というメッセージと受け取るべきだと私は思いました。

 

 私が「この本に出会う選択をしてよかった」と思うと同時に「選んでくれてありがとう」と語りかけてくれる。『君の膵臓をたべたい』はそんな贅沢で幸福なコミュニケーションができるとてもすばらしい小説です。

(100行,原稿用紙5枚ぴったり)

 

原稿用紙5枚(2000字,100行)その2

 

KKc
「ガムいる?」が可視化すること

 

 私が『君の膵臓を食べたい』で注目すべきだと思っているのは「ガムをすすめてくる男」です。このキャラクターは事あるごとに主人公に「ガムいる?」と声をかけます。

 

 私が数えたところによると4回(74頁、137頁、138頁、177頁)。たった4回ですが、とても私の注意を引きました。

 

 私の経験上、こういう何回も同じ行動をとるキャラクターは、大切な役割を担っていることが多いからです。案の定、エンディングで彼についても後日談が語られています。

 

 どうしてただの「ガムをすすめてくる男」が『君の膵臓をたべたい』でこんなに重要なポジションを与えられているのか。それを考えてみたいと思います。

 

 主人公は「ガムいる?」の問いかけに対して何度も「いらない」と答え、ガムをすすめてくる男はめげずに何度もガムをすすめます。
 これは主人公が「贈り物を受け入れる準備」ができていなかったことを表しています。

 

 私たちが贈り物を受け取るときに気まずい気持ちになるのは、返礼の準備ができていないときです。たとえば忙しすぎて「ありがとう」の気持ちを充分に伝える時間・手段がないとき。人は何かをプレゼントされると、無意識に「返礼の義務感」を抱くものです。年賀状だって、出していなかった相手から届くと、あわててハガキを買いに走るということがあります。それと同じです。

 

 振り返ると、ガムをすすめられたタイミングというのは、主人公がなにか「問題」を抱えているときに限ります。桜良と付き合っていると疑われたとき、上履きがゴミ箱に捨てられていたとき、桜良のストーカーだと噂されていたとき。主人公はガムを受け取らないことを「選択」します。

 

 でも最後に彼はガムを受け取ります。直接的な描写はありませんが「あのさ、君達は僕が飴とガムを主食にして生きてるとでも思ってるの?」から推察することができます。

 

 彼は桜良のように「生きる」ために「誰かと心を通わせること」(192頁)をガムを受け取ることを通して「選択」したのです。言い換えると「ガムをもらうこと」の「返礼」として「彼と友だちになる」ことを選びました。

 

 それは彼が「成熟」した証左にほかなりません。

 

 桜良の言葉を借りるまでもなく、人は独りでは生きていけません。物語のはじめ主人公は「僕は人に興味がない」と発言します。彼はこの時点では「独りぼっちでも僕は生きていける」と思い込んでいる「子ども」です。
 でも、桜良との触れあいを通して彼は魂ごと「大人になる」ことができました。

 

 <彼女の存在そのものといえる言葉が、視線や声、彼女の意思の熱、命の振動となって、僕の魂を揺らした気がした。>(192頁)

 

 それは志賀直哉が『城の崎にて』で生き物の生死を見せつけられた後で「生きていく」意欲が芽生えなかったことと対照的です。志賀直哉は「生きていることと死んでいることはそんなに変わりがない」と思いました。

 

 『君の膵臓をたべたい』の主人公は違います。桜良と出会ったことで「誰かと関わる」という「生きる」「選択」をしました。

 

 そのように彼が「未熟」な状態から「成熟」したことがはっきりわかる効果測定装置として、「ガムをすすめてくる男」は配置されていたのだと私は思います。

 

 彼は「ガム」というアイテムを通して主人公の成長を可視化してくれました。だから彼は主人公にとって、桜良の次に(恭子と並んで)大事なキャラクターであると断言できます。

(84行,原稿用紙4枚と4行)

 

おわりに

KKc
お読みいただきありがとうございました。

 

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