森博嗣の小説とエッセイから考えるメッセージのバイアス

※引用はすべて『ダ・ヴィンチ』2015年11月号による

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『ダ・ヴィンチ』2015年11月号を読む

 『ダ・ヴィンチ』2015年11月号に森博嗣のインタビューが掲載されていた。
 『すべてがFになる』がアニメ化するということで、その宣伝のためのものだと思われる。あるいは講談社タイガで10月20日に刊行される『彼女は一人で歩くのか?』のコマーシャルだろうか。
 彼は最近「仕事は一日一時間まで」と決めているようなので、このインタビューも一時間以内に行われたのかなと予想しながら読む(実際に声に出してみればインタビュー時間を予測できるのだろうけど、しません。もしかしたらメールで対談したかもしれないし)。
 聞き手は雨宮まみ。『すべてがFになる』アニメの脚本を担当している方らしい。彼女は森博嗣のファンであるということを述べていたが、その辺りで気になる発言があった。森博嗣の小説だけではなく、エッセイも読んでいるということを告白したところ。

森博嗣の読者は2種類に分かれる

<森 小説とエッセィ、両方読まれている方は大変珍しいですよ。たいていは片方だけです。>
(102頁)

 私も森博嗣の本を読むが、読書の大半はエッセイに偏っている(元々小説を読むのが得意でないということもあるが、『すべてがFになる』『冷たい密室と博士たち』『スカイ・クロラ』『ZOKU』しか読んだことがない。)。
 森博嗣のエッセイは私にとって共感できる部分が多い。
 たぶん森博嗣の小説をたくさん読む人は、森博嗣の小説は共感できる部分が多いと感じているのだろう。
 森博嗣は<計算して小説を作っている職人>(103頁)である。だから小説中の「共感できる部分」というものはおそらく森自身が思っていることであり、それをそのまま(ストーリーなど「余計なもの」を省いて)書き留めたエッセイも、同じように読者の共感を得られるはずだ……と私は思うがどうやら違うらしい。

「何を言うか」ではなく「誰が言うか」

<森 そういう分析をして「じゃあエッセィを書いたら売れるんじゃないか」と考えたのですが、売れないんですよね。僕じゃなくて、やっぱり犀川先生が言わないとダメなんです(笑)。そこは小説じゃないと聞いてくれない。>
(102頁)

 人が何かに真剣に耳を傾けるかどうか、それはメッセージの内容ではなくて、メッセージがどこから発信されたかどうかが左右する。
 さらに踏み込んで言うと、どういう文脈で出てきたものなのかが重要なのだと私は思う。

 森博嗣の読者が小説のみの読者と、エッセイのみの読者に分かれると仮定する。
 小説のみの読者は「犀川先生」の言葉に「ああ、いいこと言うなあ」と共感する。
 エッセイのみの読者は「森博嗣はやっぱりいいこと言うな」と感心する。
 どちらも発言者に依存してメッセージの内容に良いバイアスがかかっている。たぶん同じような内容を他のところで目にしても、同じようには感動できないだろう。

 これって、文章を読む立場としてはいかがなものかと思う。「いいこと」が書いてあっても「いい人」が言ったことでなければ「いいな」と思えないのでは。なんだか残念な気がする。
 というわけで10月20日に発売される森博嗣『彼女は一人で歩くのか?』を買って読んでみようと思う。私が小説でも、森博嗣をいいなと思えるかの実験として。
 こう考えている時点で「バイアス」はかかっていそうですけど。

おわりに/h2>

KKc
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