辻村深月『ツナグ』読書感想文|「幸福に勘違い」する小説

※引用はすべて新潮文庫による

あらすじ

一生に一度だけ、使者との再会を叶えてくれるという「使者」。

突然死したアイドルが心の支えだったOL、年老いた母に癌告知出来なかった頑固な息子、親友に抱いた嫉妬心に苛まれる女子高生、失踪した婚約者を待ち続ける会社員……

ツナグの仲介のもと再会した生者と死者。それぞれの想いをかかえた一夜の邂逅は、何をもたらすのだろうか。

心の隅々に染み入る感動の連作長編小説。

(裏表紙)

 

 

「死んだ人間と生きた人間を会わせる窓口。僕が使者です」

(11頁)

 

KKc
 「使者」と書いて「ツナグ」 。

 タイトルの「ツナグ」とは「この世」の人の依頼を受け、「あの世」の人と会う場を設けてくれる段取りを整える人のことだ。

 

 『ツナグ』に収められた『アイドルの心得』『長男の心得』『親友の心得』『待ち人の心得』でツナグは死者と生者を引き合わせる。

 

 そして終章『使者の心得』は「ツナグ」を務める少年のお話。前4章の舞台裏が明かされる。

 

使者(ツナグ)のルール

 

  •  生きている間に一度だけ、死んだあとに一度だけ、「反対側」にいる人と会うことができる

 

  •  「逆指名」はできない。使者は常に待つ側である。生者が「会いたい」とツナグに依頼し、それを死者に伝え「会う」旨の返事をもらえたら二人をツナグが引き合わせる。

 

  •  生者と死者が会えるのは一晩だけ。満月のとき面会時間は最長となる。

 

  •  無料である(ツナグは「ボランティアです」と言う)

 

  •  最後にツナグは依頼人から感想を一言もらうことになっている

 

解説:本多孝好

 

 解説は作家の本多孝好。
 そのなかで『ツナグ』の作者・辻村深月をこう評している。

 

ケレン味に溢れたお嬢さんが登場しましたねえ、というのが、当時の僕の率直な感想である。

実際、それは新人離れした作品だった。

圧倒的な分量のみならず、一筋縄ではいかない設定も、入り組んだ仕掛けも、小説を書き始めたばかりの人に捌き切れるようなものではなかった。

それを捌き切ったのは、この作家の天性のケレン味であろうと僕は思ったし、彼女はこのケレン味を伸びやかに育んでいくのであろうとも考えていた。

(436頁)

 

 「ケレン味」とは『広辞苑 第五版』によれば「俗受けをねらったいやらしさ。はったり。ごまかし」。
 どちらかといえば嫌みのようなことばだが、本多はけっこう辻村のことを買っているようだ。

 

 

 今からずっと先に辻村深月という作家を振り返ってみたとき、この『ツナグ』という作品が重要な位置を占めるのは間違いないと思う。

(438頁)

 

と書いていることからも明らかだ。

 

感想

 

 『ツナグ』は私たち生きているものに対して問いを投げかけていると思う。
 「あなたは誰と会いたいか」
 「あなたは誰に会いたいと思って欲しいか」
 「あなたは誰かに会いたいと思うことがあるだろうか」

 

 

 そんな思いを馳せた時点で、辻村深月は読者にとっての使者(ツナグ)になっているのだろう

(440頁)

 

 『ツナグ』を「自分のために書かれた物語だ」と私的に引きつけて考えたのならば、それは最高に幸福な読書になっていると思う。

 

 「自分こそが(唯一の)受信者である」という特別感を抱いて「勘違い」することは、なにかに触れるときの最上の態度だと思った。

 

読書感想文(1200字,原稿用紙3枚,60行以内)

KKc
「いくつになっても成長できる」

 

 <「金ならある」>

 

 これが「長男の心得」の最初の一行です。私はこれを読んだとき、今回の依頼者はぶっきらぼうな人だな、と思いました。ツナグはその言葉に対して「報酬は一切受け取りません」と答えます。しかし、同じやりとりが冒頭で3回繰り返されます。数えてみたら8ページで3回でした。とても多いです。

 

 そこで私は、そんなに依頼者が「金ならある」と繰り返すということは、このセリフはきっと彼の気持ちをよく表わしているものなのかもしれない、考えました。勉強だって、授業で先生が繰り返して言うところはテストに出ます。何回も出てくるところは大事なところです。
 このことを考える上でヒントになったのは、依頼者が自分の息子について語るシーンです。息子が法事のさいに座布団が足りないことに気づき、取りに行ったことを妻から教えてもらうところです。

 

 <褒めてやったら?
 何だそれは、と眉をひそめる。
 「子供じゃないんだから、それくらいわざわざ褒める必要もないだろう。バカバカしい。気づいたらやるのが当たり前だ」
 「でも」
 「そんなことで呼び止めるな」>

 

 ここを読んで私は、依頼者は自分の決めたルールをしっかり守ることを大事にしている人だと思いました。「気づいたらやるのが当たり前」だと思っているから褒めない。それが依頼者の家の「ルール」だから。ルールはふつう破ったら怒られますけど、守っている間は何も言われないものです。だからツナグに会ったときも「報酬は一切受け取りません」と返事をされながらも、さらに2回同じやり取りを繰り返してしまったのだと思います。たぶん彼のルール・ブックに「頼んだら、お金を払うこと」と書かれていたのだと思います。

 

 でも、最後に彼は変わりました。ツナグとの別れぎわにポケットから名刺を出してこう言います。

 

 <「近くまで来ることがあったら連絡してくれ。今回は本当に世話になったし、もし何か役に立てることがあったら頼って欲しい」>

 

 彼は死んだ母親と会ったことで変わりました。ルール・ブックが「頼んだら、お金を払うこと」から「頼んだら、お礼を渡すこと」に書き換わったのです。これはとてもわずかな変化ですが、はっきりとした彼の成長です。その証拠に、それまで表情を変えることのなかったツナグが笑顔になりました。よいことができるようになるということは、成長したということです。息子もいるくらいの年齢になっても、自分を変えて成長することはできる。そのことを私は『ツナグ』から学びました。

(60行,原稿用紙3枚ぴったり)

 

読書感想文(2000字,原稿用紙5枚,100行以内)

KKc
「無限に死者と会う方法」

 

 使者(ツナグ)が会わせてくれる人数は、自分が生きているときと死んだあとでそれぞれ一人ずつです。

 

 私はこれを読んで「少ないな」と思いました。欲を言うなら100人くらいほしい。せめて10人くらい枠があったらいいなと思いました。欲張りですね。

 

 たぶん使者(ツナグ)の仕事はボランティアでやっていることなので、会うことのできる人数をむやみに増やしてしまうと、手が追いつかなくなるから、そういう人数設定になっているのだ思います。無料でいくらでも会えるのならば、毎日通う人だって出てきそうです。

 

 かといって使者(ツナグ)側の人数を増やしてさらにお金も取るようにして、「株式会社ツナグ:あなたと死者との窓口」みたいなビジネスにしてしまったら、それはそれで感動の物語が台無しになってしまいます。『ツナグ』の世界の使者はこのままでいいのだと私は思います。

 

 さて、『ツナグ』はフィクション小説ですから、現実の私たちは彼らに仲介をしてもらって死者と話すことはできません。
 でも私は使者(ツナグ)に頼らなくても死んだ人に会える方法を見つけました。本多孝好による「解説」のなかにヒントがありました。

 

 <この作品で吉川英治文学新人賞を受賞した際、彼女はこんな言葉を寄せている。
 自分のために書いてもらったと幸福に勘違いしながら続けてきた読書体験が、自分の血肉となっている、と。>

 

 『ツナグ』の作者・辻村深月は読書をするとき、「これは私だけのために書いてもらった本なのだ」と思い込みながら読んできたそうです。

 

 ふつうに考えてそれは絶対ありえないことです。たとえば大統領の娘に生まれていたとしたら一冊くらいそのような物語をプロの小説家に書いてもらえるかもしれないですけど、私の知る限り辻村深月はそのような出身の人ではありません。たぶん私たちと同じような、ふつうの一般市民・一読者であるはずです。

 

 私が読む本は、ほぼ100%私のために書かれた本ではありません。でも、「私のために書かれたのだ」と「勘違い」することは自由です。辻村深月はそれを自覚していたからこそ、その考え方を「幸福な勘違い」と名づけたのだと思います。

 

 「幸福な」というのは二つの意味が含まれていて「その考え方って幸せだよね」ということと、「幸せな考え方ができる私たちって幸せだよね」ということです。

 

 「その考え方って幸せだよね」ということは、その考え方が最上の読書態度であることを言っています。私たちは本を読むとき「こんなの、誰が読むんだ」と思って読むのと「まさにこれが私の読みたかった本だ! これは私のために書かれた本に違いない!」と思って読むのでは、読書の楽しさに歴然とした違いがでます。

 

 言うまでもなく、「自分のための本だ」と思いながらページをめくるほうが楽しいです。だからそれは「幸せな考え方」です。

 

 「幸せな考え方ができる私たちって幸せだよね」ということは、ただ自画自賛しているだけのように見えますが、『ツナグ』の内容をふまえて考えると、その意味がわかってきます。
 『ツナグ』は生きた人が死んだ人と出会う物語でした。読書は人が書いたものを読むことです。そしてその本を書いた人は、すでに亡くなっていることもあります。たとえば太宰治や夏目漱石、芥川龍之介やコナン・ドイルはもうこの世にいません。

 

 読書とは、そのような作者の書いたものを読むということは、見方を変えると、死者となった彼らと書物という使者(ツナグ)を媒介として出会うことなのではないでしょうか。

 

 そういう視点に立つと、私たちは時間の許す限り無限に死者と会うことができることになります。『ツナグ』の世界で実現不可能だった「無限に死者と会うこと」が実現できるのです。
 私はこの事実に気づいたとき、とても幸福な気持ちになりました。

 

 この気持ちもきっと「幸福な勘違い」のうちに入るのでしょうけれど、たとえ勘違いでも幸福なんだからいいじゃん、と思います。たぶん辻村深月も同じ気持ちで上のような言葉を発したんじゃないかな、と私は思いました。このように考えるのも「幸福」ですね。

(96行,原稿用紙4枚と16行)

 

おわりに

KKc
お読みいただきありがとうございました。

 

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